紀夏井 (KI no Natsui)
紀 夏井(き の なつい、生没年未詳)は平安時代初期の貴族、政治家。
大納言紀古佐美の曾孫。
美濃国国司紀善峯の子。
正五位・弁官。
経歴
天安 (日本)2年(858年)に讃岐国守、貞観_(日本)7年(865年)には肥後国守に任じ、いずれの任国においても善政を施し領民に慕われた。
その一方、能書家しても名高く、特に楷書の分野においては聖とまで言われるほどの才能を発揮した。
さらに囲碁の分野でも名人として名を馳せるなど、多様な才能を持つ能吏として、中央においても徐々にその名を浸透させていった。
しかし、貞観8年(866年)に応天門の変が起こり、異母弟の紀豊城が首謀者の一人として逮捕されると、夏井もこれに連座、肥後守の官職を解かれて土佐国に配流となった。
土佐国へ護送中、肥後国の百姓等が夏井の肥後国外への移送を拒もうとしたり、讃岐国の百姓等は讃岐国内から土佐国の境まで夏井に付き随い別れを惜しんだという。
その後の詳細は不明であるが、配所で没したとされる。
中央・地方を問わず人望のあった夏井の失脚は、武内宿禰以来の名家である紀氏の政界における没落を決定的なものとした。
この事件の後、同氏は宗教界や歌壇において活躍する氏族となっていく。
紀夏井が讃岐守の任期を終えて20余年後に、菅原道真が讃岐守として現地に赴任した際、讃岐国の百姓は紀夏井の善政を忘却しておらず、道真は紀夏井と何かと比較され国政運営で難渋したという逸話がある。
経歴
※日付=旧暦
850年(嘉祥3)
少内記に任官。
854年(仁寿4)
美濃少掾を兼任。
同年、美濃少掾辞任。
855年(斉衡2)
大内記に転任。
9月27日、従五位下に叙し、右少弁に転任。
857年(斉衡4)
1月7日、従五位上に昇叙し、右少弁如元。
1月14日、播磨介を兼任。
5月8日、式部少輔を兼任。
6月19日、右中弁に転任。
式部少輔・播磨介如元。
858年(天安 (日本)2)
11月25日、讃岐守に遷任。
862年(貞観_(日本)4)
任期満了の処、讃岐国百姓等の懇望により讃岐守を2年延任。
865年(貞観_(日本)7)
1月27日、肥後守に任官。
866年(貞観_(日本)8)
9月22日、応天門の変の罪人との血縁から連座の適用を受け土佐国へ配流となる。