細川信良 (HOSOKAWA Nobuyoshi)
細川信良(ほそかわ のぶよし、天文 (元号)17年(1548年) - 文禄元年(1592年))は戦国時代 (日本)、安土桃山時代の武将・大名。
室町時代に栄えた細川氏の本流である「京兆家」の直系子孫。
幼名は六郎、聡明丸。
名は「「昭元」「信元」とも。
管領細川晴元の子、母は六角定頼娘。
正室は織田信長の妹お犬の方。
子に細川元勝(頼範)、娘は秋田実季室。
弟に細川晴之。
父晴元が三好長慶と一時的に和睦した際に人質となる。
その後、父が長慶と敵対すると管領細川氏綱と共に淀古城に軟禁され、1558年に長慶の下で元服した。
晴元が長慶と和睦すると父と久々の対面を果たしている。
隠居、病没した父の跡を継ぐものの、勢力は取り戻せず、管領であった氏綱の没後も管領職に任命されることはなかった。
永禄の変の後、足利義栄を擁立する三好氏により名目上の管領として処遇を受ける。
が、足利義昭を伴なって織田信長が上洛すると、当初は野田城・福島城の戦いにおいて織田軍と対峙したが、やがて将軍となった足利義昭に臣下の礼をとった。
このころ義昭より一字拝領を受けて京兆家の当主らしく「細川昭元」と名乗る。
名目上摂津の旗頭とされた。
信長の勢力下では、1572年には摂津国で本願寺の下間頼龍・下間頼純と交戦して敗北するなど武功には恵まれなかった。
が、室町幕府の幕臣対策として利用された。
義昭が追放された後は、義昭の槇島城を任され京都に留まった。
ちなみに同族の細川藤賢は近江坂本城を任された。
1575年(天正3年)には右京大夫に任じらる。
翌年には信長の妹を娶り、細川氏の旧領であった丹波のうち桑田郡・船井郡を与えられる。
京兆家当主として織田政権の傀儡となった。
丹後国の一色義道が誼を求めて信長との面会を求めたときはこれに立ち会い、共に堺を見物している。
本能寺の変の直後において、妻の織田氏お犬とは死別。
本能寺の変の後から四国征伐までの間にかけて、阿波国において細川氏と関係が深い長宗我部氏と連絡を取りあい豊臣秀吉に抵抗した記録が残されているが、やがて秀吉に属した。
1592年、病没した。
子孫は三春藩秋田氏の家老となる。