細川和氏 (HOSOKAWA Kazuuji)
細川 和氏(ほそかわ かずうじ、1296年(永仁4年) - 1342年10月13日(興国3年/康永元年9月13日 (旧暦)))は、鎌倉時代後期から南北朝時代 (日本)の武将。
家系は清和源氏の一家系 河内源氏の流れを汲む足利氏の庶流 細川氏。
細川公頼の子。
兄弟に細川頼春、細川師氏。
子に細川清氏、細川頼和、細川将氏、細川家氏。
名の読みは「ともうじ」とも。
号は道倫。
三河国細川郷(現在の愛知県岡崎市)出身。
元弘の乱後から足利尊氏に仕え、討幕運動などでも功を挙げた。
幕府滅亡後に後醍醐天皇による建武の新政が開始されると阿波国守に任じられた。
尊氏に従い北条氏残党の反乱である中先代の乱の鎮圧に参加した。
尊氏がそのまま建武政権から離反した尊氏に対して官軍が派遣された。
和氏は、佐々木道誉や上杉憲顕らとともに迎え討ち、その後も軍事行動を共にする。
1336年、京都奪還に失敗した足利勢が九州落ちする。
細川氏は四国へ派遣され、和氏は従兄弟の細川顕氏と共に四国の諸大名や国人統率などで功を挙げた。
足利勢が湊川の戦いで宮方を撃破し、京都を掌握した尊氏が幕府を開いた。
和氏は引付頭人、次いで侍所の頭人となる。
その後隠居して阿波で過ごし、夢窓疎石を招き補陀寺を開く。
1342年9月13日、47歳で死去した。