細川澄元 (HOSOKAWA Sumimoto)

細川 澄元(ほそかわ すみもと)は、戦国時代 (日本)の武将・大名。
細川政元の養子。
細川晴元の父に当たる。
相伴衆の格式であった阿波細川氏(下屋形)の出身。

延徳元年(1489年)、細川義春の子として生まれる。
父・義春は阿波国守護であったが、早世していた。
このため祖父の細川成之に養育された。

当時、管領として幕政を牛耳っていた細川政元には実子が無く、九条家から養子に迎えた細川澄之を家督継承者に定めていたが、これを廃嫡し、文亀3年(1503年)5月に養子として迎えられた澄元が家督継承者に指名された。
ところが、これが原因で澄之・澄元は家督をめぐって抗争するようになる。
永正3年(1506年)から永正4年(1507年)にかけて、政元の命令で澄之と共に丹後国の一色義有を攻めたが、敗北している。

永正4年(1507年)6月23日、政元が香西元長や薬師寺長忠ら澄之の支持者によって暗殺されると、6月24日には澄元も澄之の家臣に屋敷を襲われ、三好之長と共に近江国甲賀に逃走した。
そして近江の国人の力を借りて勢力を盛り返し、8月1日には京都に侵攻して澄之とその支持者を討ち取り、8月2日には第11代将軍・足利義澄に対して細川家の家督継承を承認させたのである。

ところが澄元は若年だったため、家宰であった三好之長の実力が逆に大きくなり始め、澄元は之長と対立して一時は阿波に帰国しようとした。
このときには足利義澄の説得もあって帰国はとどまっている。

このような京都における一連の内乱が、周防国に流れていた第10代将軍・足利義稙義尹(義材より改名)のもとに知らされると、義尹は大内義興に擁立されて上洛を開始する。
澄元は義興との和睦を画策したが、同じく政元の養子で澄之討伐に協力した細川高国が大内方に寝返ったため、決裂してしまった。

永正5年(1508年)4月、細川高国が京都に侵攻を開始する。
このとき、摂津の伊丹元扶や丹波の内藤貞正らも呼応したために澄元は敗北し、之長や将軍・足利義澄と共に近江に逃れた。
そして6月、足利義尹が大内義興に擁されて上洛すると、義稙(義尹より改名)によって澄元の家督は剥奪され、代わって高国の家督継承が承認されることとなった。

ところが大内義興と足利義稙が対立し始めたため、澄元と之長は永正6年(1509年)に京都に侵攻したが、逆に高国と義興の反撃を受けて敗北(如意ケ嶽の戦い)し澄元と之長は阿波に逃走する。

永正8年(1511年)には足利義澄、細川政賢(典厩家)と連携して京都に侵攻する(船岡山の戦い)。
しかし戦いの最中に義澄が病死したこともあって、大内義興の反撃を受けて大敗を喫し、政賢は戦死し、澄元は摂津に逃走した。

永正15年(1518年)8月、大内義興が周防に帰国すると、永正16年(1519年)に澄元と之長は摂津に侵攻する。
永正17年(1520年)1月に入ると、澄元に呼応して山城で土一揆が発生し、さらに将軍・足利義稙も澄元に通じて裏切ったため、細川高国は単独で近江坂本に逃れた。
これにより、澄元政権が成立する。

ところが5月、高国は大軍を集めて京都に侵攻する。
これに対して澄元・之長らは兵を集めることができず、之長は捕らえられて自害させられ、澄元も摂津伊丹城に敗走し、政権は短期間で崩壊した。
そして失意のうちに病に倒れた澄元は、まもなく高国の攻撃を受けて播磨国に逃走した。
最終的には永正17年(1520年)6月10日に阿波勝瑞城にて死去した。享年32。

後を子の細川晴元が継いだ。

[English Translation]