織田敏信 (ODA Toshinobu)
織田 敏信(おだ としのぶ)は、戦国時代 (日本)の武将。
『寛政重修諸家譜』によると尾張下四郡の守護代「織田大和守家」(清洲織田氏)の織田敏定の嫡男。
尾張の岩倉城主織田信安の父とされる。
しかし、出自についてははっきりせず、定かではない。
また「清巌」の法名や備後国守の官位を名乗ったことから、清洲三奉行の一家で「織田弾正忠家」(勝幡織田氏)の祖織田良信の父であるとされるが、一説にこの良信と敏信とを同一人物という説がある。
経歴
斎藤氏の後ろ盾を失った「織田伊勢守家」(岩倉織田氏)の衰退後、まもなく岩倉城主として敏信の名が『武功夜話』などの文献に登場する。
文明17年(1485年)9月8日、室町時代の歌人である万里集九が江戸城へ太田道灌を訪ねる中途、尾張春日井郡にある清洲城の敏信邸に立寄り、敏信の許で犬追物を見物して詩を作ったという。
延徳3年(1491年)、六角高頼征伐のため、敏信は父とされる「織田大和守家」織田敏定と共に近江国坂本 (大津市)へ主君・尾張国守護の斯波義寛へ従軍したという(長享・延徳の乱)。
また明応2年(1493年)、再び守護・義寛へ従い、敏信は上洛して京に滞在するなど各地で活躍したという(『蔭涼軒日録』)。
没年について岩倉市の龍潭寺にある敏信の位牌には永正14年(1517年)1月26日 (旧暦)没とあるが、『武功夜話』には明応4年(1495年)、船田合戦で討死とも。
後に娘は尾張の虎と渾名された豪勇織田信秀の側室となったいわれる。