織田敏定 (ODA Toshisada)
織田 敏定(おだ としさだ)は戦国時代 (日本)の武将。
織田久長の嫡男とされる。
尾張国下四郡の守護代。
清洲織田氏(織田大和守家)の当主。
清洲三奉行の一家「織田弾正忠家」の織田信定の父とする系図もあるが仮冒の可能性も指摘されている。
生涯
清洲城を本拠とした尾張下四郡の守護代清洲織田氏(織田大和守家)は元々織田宗家であった岩倉織田氏(織田伊勢守家)の分家で、尾張の在地支配をした代官の家柄であった。
織田敏定の代に尾張守護斯波義寛を奉じて、宗家に代わり、尾張守護代に任じられたため、織田氏の実権を握り、主家を凌いで台頭した。
応仁元年(1467年)、応仁の乱が起こると、新たな尾張守護となった斯波義廉を擁立して西軍についた宗家「織田伊勢守家」の尾張守護代織田敏広に対抗し、尾張守護の斯波義敏・義良(義寛)父子を支持し、細川勝元率いる東軍側についた。
文明 (日本)8年(1476年)、主君である義良に命じられ、尾張に入部して中島郡にある尾張国守護所である下津城を中心に勢力を持つ城主「織田伊勢守家」織田敏広とその岳父である美濃の斎藤妙椿ら連合軍と戦い、敗走させて山田郡の国府宮に駆逐した。
しかし「織田伊勢守家」が巻き返して、敏定は尾張から追放させられた。
その後の敏定の動向は定かではないが、京に滞在していたとされる。
文明10年(1478年)、幕府は敏定の尾張入国を推進し、嫡流「織田伊勢守家」に代わって幕府から尾張守護代を任命され、「凶徒退治」を命ぜられた(幕府は西軍の斯波義廉と織田敏広を兇徒とした)。
そして同年、10月12日 (旧暦)に京から尾張へ下国し、美濃国守護の土岐政頼・斎藤妙椿らに擁立され、新たな守護所となった清洲城に入城した(『親元日記』)。
斎藤家は「織田大和守家」へ寝返ったと思われたが、敏広が清洲城への攻撃を始めると、妙椿は幕命を逆らい敏広に援軍を送った。
このため、苦戦を強いられた敏定は美濃国牽制のため、信濃国の小笠原家長に救援を要請したという(『小笠原文書』)。
同年、12月4日 (旧暦)、美濃の斎藤家の後ろ盾を得て、清洲城奪還に乗り出した敏広に清洲城を包囲されると、一時は全員討死の覚悟をした。
しかし、敏定自ら右眼を矢で射抜かれたまま、奮戦し、これを退けたという。
しかし、14日には再び攻撃が開始される。
幕府の再三介入により、翌、文明11年(1479年)1月19日 (旧暦)、「織田伊勢守家」の敏広と敏定は和睦を結んだ。
これにより、「織田大和守家」と「織田伊勢守家」の両織田氏による共同統治となり、尾張を分割した。
尾張下四郡(愛知郡、知多郡、海東郡、海西郡の四軍のこと、最初「織田大和守家」は中島郡と海東郡の二郡及び山田郡 (尾張国)の一部のみ)の守護代となる(『大乗院寺社雜事記』)。
その後は敏定は守護義寛とともに在京していたという。
やがて「織田伊勢守家」との和睦が崩れ、文明13年(1481年)3月 (旧暦)、再び「織田伊勢守家」の敏広と戦って、勝利したという(『梅花無尽蔵』)。
同年、8月 (旧暦)、「織田伊勢守家」の木ノ下城(犬山城)主織田広近と共に上洛し、8代征夷大将軍・足利義政に尾張平穏の報告も兼ねて、貢ぎ物をしたという(『親元日記』)。
同年、「織田伊勢守家」の敏広が亡くなったため、一時的に敏定は庶流「織田大和守家」の当主でありながら、織田家の主導権を握った。
文明14年(1482年)、日蓮宗の正統を巡る争いが起き、その混乱を収めるため清洲城内で宗論が行なわれた。
その際、敏定は調停を務めたという(清洲宗論)。
長享元年(1487年)、幕府による六角高頼征伐のため、「織田伊勢守家」の後継者織田寛広とともに義寛へ従軍し、近江坂本に布陣したという(長享・延徳の乱)。
同年、主君・義寛の名代として、敏定が越前国の主権を幕府に願え出た。
また9代征夷大将軍・足利義尚より、寺領(妙興寺領)を安堵された。
長享2年(1488年)、尾張争乱のため、義寛を伴って尾張へ下国し、争乱の隙をつき、敏定は「織田伊勢守家」の愛知郡 (愛知県)へ進出したという。
延徳3年(1491年)、再び六角高頼征伐のため、敏定は義寛へ従軍し、功績を立てた(長享・延徳の乱)。
明応3年(1494年)、美濃守護土岐氏の家督争いから発展して争乱が起こると、斎藤妙椿の跡を継いだ斎藤妙純に「織田伊勢守家」が味方すると、斎藤氏には宿怨があったため、美濃小守護代石丸利光の娘を嫡子・寛定の妻に迎えていたため、石丸方に付き、敏広の後を継いだ斎藤方に組した織田寛広と戦う(船田合戦)。
しかし、翌年の明応4年(1495年)7月 (旧暦)、敏定は布陣中に死去したという(『船田戦記』によると病死とあり、『武功夜話』では戦死したともいう)。