織田秀則 (ODA Hidenori)
織田 秀則(おだ ひでのり)は安土桃山時代の武将。
美濃国岐阜城主・織田信忠の次男。
織田秀信は異母兄。
幼名は吉丸、通称は左衛門尉。
官位は従四位侍従。
諱は秀利とも。
法名は英厳。
御吉侍従の通称がある。
慶長元年(1596年)頃、大坂城下で暮らしており、キリスト教に入信し、パウロという洗礼名を得る。
なお、兄秀信も同時にキリスト教に入信する。
慶長3年(1598年)京都妙心寺に見性院を創建する。
見性院はのち美濃の石河氏により桂春院として現在も存続している。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の合戦に際しては、兄秀信と共に西軍に属し、美濃岐阜城に篭城する。
合戦では、一族とみられる織田兵部、津田藤右衛門らとともに大いに奮戦したことが江源武鑑巻十八に伝わる。
戦後、兄秀信は改易となり、秀則は豊臣家を頼り、大坂城下に移り住む。
その後、豊臣家の滅亡にともなって、京都に移り住む。
晩年は剃髪し、宗爾と称した。
津田信益と改名したとも伝わるが、同名の別人の可能性もあり詳細は不明である。
寛永2年(1625年)10月27日 (旧暦)、京都で死去、45歳。
子女は女子一人(小笠原貞政妻)。