織田長益 (ODA Nagamasu)
織田 長益(おだ ながます)は、安土桃山時代から江戸時代初期の大名・茶人。
織田信長の実弟。
織田信秀の第11子で、通称は源五(あるいは源五郎)。
有楽斎如庵(うらくさいじょあん、有樂齋如庵)と号し、後世では有楽、又は有楽齋と称される。
千利休に茶を学び、利休七哲の1人にも数えられる。
のちには自ら茶道有楽流を創始した。
また、京都建仁寺の正伝院を再興し、ここに立てた茶室如庵は現在、国宝に指定されている。
生涯
長益は信長の実弟の一人であるが、信長とは相当年齢が離れており、前半生の事歴はあまりわかっていない。
1570年代頃から織田信長の長男織田信忠の旗下にあり、天正10年(1582年)の本能寺の変の際は、信忠とともに二条城にあった。
信忠が長益の進言に従って自害したのに対し、長益は変節して城を脱出。
近江安土町を経て岐阜市へ逃れた。
この時のことを、京都の民衆たちには「織田の源五は人ではないよ お腹召せ召せ 召させておいて われは安土へ逃げるは源五 むつき二日に大水出て おた(織田)の原なる名を流す」と皮肉られている。
変後は甥である織田信雄に仕え、小牧・長久手の戦いでは徳川家康と豊臣秀吉の講和に際して折衝役を務めたという。
その後、知多郡に所領を与えられて大草城に居城した。
天正18年(1590年)の信雄改易後は、秀吉の御伽衆として摂津国嶋下郡味舌(現大阪府摂津市)2000石を領した。
関ヶ原の戦いでは東軍に属し、長男織田長孝とともに参戦。
石田三成家臣の蒲生頼郷を討ち取るなどの戦功を挙げ、戦後大和国内で3万石を与えられた。
しかし、戦後も豊臣家に出仕を続け、姪の淀殿を補佐した。
このころ建仁寺の子院正伝院を再建し、院内に如庵を設けた。
現在、正伝永源院(明治期、名称を変更)には長益夫妻、孫織田長好らの墓がある。
また、長益夫妻、孫娘(次男頼長の娘)、兄織田信包らの肖像画も伝わっている。
茶室如庵(現在は愛知県犬山市名鉄犬山ホテル内の有楽苑(うらくえん)に移築されている)
大坂の役の際にも大坂城にあり、大野治長らとともに豊臣家を支える中心的な役割を担った。
大坂の役を前にして豊臣家から離れた。
豊臣家内の和平派であったためと思われる。
一説には幕府の間者であったともいう。
大坂退去後は京都に隠棲し、茶道に専念し、趣味に生きた。
元和 (日本)元年(1615年)8月、四男長政、五男尚長にそれぞれ1万石を分け与え、長益本人は隠居料として1万石を手元に残した。
元和7年(1621年)12月13日、京都で死去。
享年75。
子孫
正室は平手政秀の娘。
子女には長男織田長孝・次男織田頼長(嫡子)・三男織田俊長・四男織田長政 (大名)・五男織田尚長・六男宥諌(僧侶)ら六男三女を確認できる。
庶長子・長孝は関ヶ原の合戦において父とともに東軍として参加して戦功を挙げ、1万石を与えられて大名に取り立てられ(野村藩)、事実上幕府から分家を認められた。
嫡子頼長は父とともに関ヶ原の合戦後も豊臣秀頼に仕えた。
また、父の創始した茶道有楽流を継いだ。
四男長政と五男尚長は1615年に父が隠棲した際に、長益が大和国内に領する3万石を分割して1万石ずつを与えられた。
長政が戒重藩、尚長が柳本藩の藩祖であり、いずれも1万石の外様大名として明治まで続いた。
なお、長益自身が隠居料として取った1万石は長益の死とともに収公されている。
有楽町
東京都千代田区有楽町(ゆうらくちょう)という町名は、有楽が同地に居住していたことに由来するという説があるが、有楽が江戸に住んだという記録はない。
大阪にはかつて、有楽が居住したといわれる場所に有楽町(うらくちょう)が存在した。
大阪のは、現在の大阪市西成区天下茶屋付近であったが、戦後の度重なる区画整理などによって消滅した。
小説
『織田有楽斎』(堀和久)