義昭 (Gisho)
義昭(ぎしょう、応永11年(1404年) - 嘉吉元年3月13日 (旧暦)(1441年4月4日))は、室町幕府第3代征夷大将軍・足利義満の子。
真言宗の僧侶で大僧正・大覚寺門跡・東寺長者を務める。
室町幕府最後の将軍である足利義昭(よしあき)と区別するために大覚寺義昭(だいかくじぎしょう)とも呼ばれている。
母親は不明だが、応永13年(1406年)に日野重光の養子として養育されていたとされる義満の3歳になる男子「妙法院殿」が年齢的に義昭と同一人物と考えられている。
日野家は代々足利将軍家の外戚であり、そこの養子とされたということより、実の母親もそれ相応の社会的地位を持っていた出自であったと推定されている。
その後、応永21年(1414年)に大覚寺に入って出家し、同26年(1419年)に大僧正俊尊を導師として灌頂を受け、応永29年(1422年)と34年(1427年)に東寺長者に補任されている。
ところが2度目の東寺長者補任の翌年である正長35年(1428年)、足利義満の子のうちより第6代将軍を選出することになる。
このため、義昭も含めて義満の子供達の周辺の動向は慌しくなるが、選ばれたのは11歳年長の異母兄である青蓮院門跡義円(足利義教)であった。
義教は幕府権力再建に尽力したが、一方で猜疑心も強く、些細な理由で処罰されたり殺害されたりする武家や公家が相次いだ。
このため、人々は義教を「万人恐怖」と呼んでこれを恐れた。
永享6年(1434年)には、義昭の養父・日野重光の嫡男である日野義資が義教の側室である実妹の日野重子が男子(後の第7代将軍足利義勝)を生んだことを理由に謀叛の疑いをかけられて処刑されたのである。
そのような中で義満時代以来恒例であった大覚寺門跡が室町殿を訪れて祈祷を行う慣例が途絶え、義昭と義教の仲は次第に疎遠となっていった。
永享9年7月11日 (旧暦)(1437年8月12日)未明、義昭は秘かに大覚寺を出奔して行方不明となった。
義教以下幕府首脳は大覚寺が南朝 (日本)ゆかりの寺院であり、更に古河公方足利持氏も反幕府の動きを見せていたことから、義昭はそのどちらかと結んで出奔したと判断して畿内各地で捜索を開始した。
翌月には義昭が吉野で還俗して挙兵したという情報が入り、翌永享10年(1438年)3月には大和国に討伐軍が派遣されて、9月には吉野で反抗していた大覚寺の僧侶と山名氏旧臣が討たれた。
これを「大覚寺義昭の乱」と呼ぶ場合もあるが、実際のところは一連の騒動の期間に義昭が吉野に滞在していた証拠は勿論、挙兵の中に義昭当人がいることを確認した者も存在せず、あくまでも風説の独り歩きでしかなかった。
また、その後の義昭の行動にも南朝や鎌倉府との関係を示す要素は残されておらず、単に義教から粛清されるのを恐れて先に出奔して姿を晦ましただけとも解釈可能である。
更に大覚寺と南朝の関係を考えた場合、義昭とは無関係に(あるいは名前だけ使って)大覚寺の僧侶が南朝再興を目指す後南朝や北畠氏などと連携して挙兵に及ぶ可能性は十分考えられることから、この挙兵が本当に義昭と関係あるかどうかはハッキリとしないのである。
それどころか、吉野で義教の命令を受けた幕府軍が義昭の影を追いかけていたところ、永享10年の3月に入ると、実は義昭は四国にいるという情報が幕府に伝えられ、やがて土佐国の国衆・佐川氏の保護下に置かれていたことが、管領細川持之発給の御内書などによる土佐・阿波国の諸国衆に対する命令で明らかとなっている。
更に永享12年(1440年)頃には義昭が九州に移って還俗して「尊有」と名乗り、日向国の国衆野辺氏の保護下に置かれていることが明らかとなった。
そこで義教は日向守護を兼ねる薩摩国守護の島津忠国に義昭討伐を命じた。
だが、島津氏中では、義昭擁護論と討伐論に割れていたらしく、万里小路時房の『建内記』には伝聞記事として、島津氏の庶流の人物より幕府に対して忠国が義昭を匿っているとする密告があったと記述している。
そこで義教は忠国と面識のある赤松満政や大内持世らを通じて説得に当たらせた。
当初は義昭討伐を渋っていた忠国も度重なる義教からの命令と幕命違反に不満を抱く家中の意見双方の圧力に屈する形で、重臣の山田忠尚・新納忠臣らに義昭討伐を命じたのである。
だが、忠国の心境は複雑であり、山田らにやむなく討ち取って首を刎ねるとしても義昭の貴人としての名誉に配慮するように命じている。
やがて山田らは櫛間永徳寺にいた義昭を包囲した。
義昭は逃げられずと悟って自害して果てたのである。
義教は薩摩から義昭の首が届くと大いに喜んだとされている。
だが、3ヵ月後にはその義教当人も嘉吉の変によって暗殺されてしまうのであった。