羽倉可亭 (HAKURA Katei)
羽倉 可亭(はくら かてい、男性、寛政11年(1799年) – 明治20年(1887年)8月12日)は、江戸時代後期の日本の書画・篆刻家である。
名は良信、
字は子文、号 (称号)は可亭の他に亦可草堂がある。
略伝
伏見稲荷大社祠官である延年の子で
同宗目代の信賢に養育されその継嗣となった。
14歳で位階日本の位階制度駿河国国司、17歳で蔵人十八権目代となる。
しかし、24歳のとき職を辞して各地を遊歴した。
幼少のころに村瀬栲亭について経学と書を学び、月峰に山水画と篆刻の教えを受けて、後に岡本豊彦に画を学んだ。
売書売印の生活をしながら、江戸に出て大窪詩仏の門下となり、細川林谷に篆刻の法を受ける。
明治維新後、宮内庁に御璽や山水図を納めている。
特に有栖川宮熾仁親王の寵遇を蒙っている。
米寿の祝賀を祇園中村楼で催し、山階宮晃親王・久邇宮朝彦親王から祝の和歌を賜っている。
翌明治20年8月八坂神社にて没した。
稲荷山に墓碑がある。
息子の羽倉南園も篆刻を生業としている。
東京芸術大学大学美術館に山水図などが収蔵されている。
著作
『天潢清流』明治13年(1880年)
『可亭印譜』明治19年(1896年)