能勢勝右衛門 (NOSE Katsuemon)
能勢 勝右衛門(のせ かつえもん、寛永15年(1638年) - 元禄4年10月2日 (旧暦)(1691年11月21日))は、岡山藩士・知行800石。
通称は少右衛門のち勝右衛門(但し、高柳利一は「勝右衛門」は役務上の呼称ではないかと指摘している)。
諱は不明。
略歴
岡山藩公儀使・能勢少右衛門 の子として生まれる。
寛文12年(1672年)、小姓組組頭を務める。
天和 (日本)3年(1683年)閏5月、寺社奉行となる。
元禄4年8月病となり、日置忠明(家老)・池田武憲(番頭)に病気養生を申し渡された。
京都で療養したものの薬石効無く10月2日京都にて没。
跡目は、子の能勢権之丞が600石で相続。
その後の能勢家
その後の能勢本家は、権之丞が元禄13年(1700年)に35歳で若死し、叔父能勢助五郎の子能勢藤十郎が権之丞の養子となり相続したが以降の本家の当主は誰であったのか不明である。
一方で助五郎の家系は150石(幕末は300石)で存続し、助五郎以降は能勢少大夫―能勢頼則―能勢頼忠―能勢勝男と続いた。