脇坂安照 (WAKISAKA Yasuteru)
脇坂 安照(わきさか やすてる)は、江戸時代の大名。
播磨国龍野藩の第2代藩主。
龍野藩脇坂家4代。
明暦4年(1658年)3月20日、初代藩主・安政の五男として生まれる。
延宝6年(1678年)9月に長兄の安村が病弱だったことを理由に廃嫡されると世子となり、同年12月に叙任する。
貞享元年(1684年)11月25日、父の隠居により後を継いで藩主となった。
元禄10年(1697年)には勅使接待役を務めている。
元禄14年(1701年)、浅野長矩が吉良義央を傷付けてしまうという事件が、江戸城中で起こる。
いわゆる「忠臣蔵」の始まりである。
このとき、安照は浅野氏の居城である赤穂城受け取りの正使を務めている。
そしてその後1年半の間、長矩に代わって永井直敬が赤穂藩主として赴任してくるまで、赤穂城の在番を務めている(ただし、実際には龍野藩の家老200名などによって在番されていたという)。
宝永6年(1709年)11月13日、長男・安清に家督を譲って隠居した。
このとき、四男の安利に2000石を分与したため、龍野藩は5万3000石から5万1000石となった。
享保7年(1722年)9月19日、同年2月に死去した安清の後を追うように龍野で死去した。
享年65。
墓所:京都府京都市右京区花園の妙心寺隣花院。