荒木村重 (ARAKI Murashige)
荒木 村重(あらき むらしげ)は、戦国時代 (日本)から安土桃山時代の武将・大名。
利休七哲のひとりである。
幼名を十二郎、のち弥介(または弥助)。
明智光秀より4年前に織田信長に反逆した武将として有名である。
先祖は藤原秀郷である。
池田・織田家臣時代
天文 (元号)4年(1535年)、摂津国池田城主である池田氏の家臣・荒木義村(異説として荒木高村)の嫡男として池田(現:大阪府池田市)に生まれる。
最初は池田勝正の家臣として仕え池田長正の娘を娶り一族衆となる。
しかし三好三人衆の調略にのり池田知正とともに三好氏に寝返る。
知正に勝正を追放させると混乱に乗じ池田家を掌握する。
その後織田信長からその性格を気に入られて三好家から織田氏に移ることを許される。
天正元年(1573年)、茨木城主となった。
同年、信長が足利義昭を攻めたとき、宇治填島城攻めで功を挙げた。
天正2年(1574年)、伊丹城主となり、摂津一国を任された。
その後も信長に従って、石山本願寺攻め、紀州征伐など各地を転戦し、武功を挙げた。
謀反
天正6年(1578年)10月、村重は有岡城(伊丹城)にて突如、信長に対して反旗を翻した(有岡城の戦い)。
一度は翻意し釈明のため安土城に向かったが、途次寄った高槻城で家臣の高山右近から「信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」との進言を受け伊丹に戻った。
織田軍豊臣秀吉は、村重と旧知の仲でもある黒田孝高を使者として有岡城に派遣し翻意を促した。
しかし、村重は孝高を拘束し土牢に監禁した。
その後、村重は有岡城に篭城し、織田軍に対して1年の間徹底抗戦した。
しかし、側近の中川清秀と高山右近が信長方に寝返ったために戦況は圧倒的に不利となった。
天正7年(1579年)9月2日、村重は単身で有岡城を脱出して尼崎城へ、次いで花隈城に移る(花隈城花熊城の戦い)。
最後は毛利氏に亡命する。
同年12月13日、落城した有岡城の女房衆122人が尼崎近くの七松において惨殺される。
以下に記されるほどの残虐な様子だったという(信長公記)。
「百二十二人の女房一度に悲しみ叫ぶ声、天にも響くばかりにて、見る人目もくれ心も消えて、感涙押さえ難し。
これを見る人は、二十日三十日の間はその面影身に添いて忘れやらざる由にて候なり。」
12月16日には京都に護送された村重一族と重臣の家族の36人が、大八車に縛り付けられ京都市中を引き回された後、六条河原で斬首された。
立入宗継はその様子を「かやうのおそろしきご成敗は、仏之御代より此方のはじめ也」と記している(立入左京亮宗継入道隆佐記)。
その後も信長は、避難していた領民を発見次第皆殺しにしていくなど、徹底的に村重を追求していった。
天正9年(1581年)8月17日には、村重の家臣を匿いそれを追求していた信長の家臣を殺害したとして、高野山金剛峯寺の僧数百人が虐殺された。
茶人として復活
天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変で横死すると堺市に戻りそこに居住する。
そして豊臣秀吉が覇権を握ると、大坂で茶道・荒木道薫として復帰を果たし、千利休らと親交をもった。
はじめは妻子を見捨てて逃亡した自分を嘲って「道糞」と名乗っていたが、秀吉は村重の過去の過ちを許し、「道薫」に改めさせたと言われている。
銘器「荒木高麗」を所有していた。
天正14年(1586年)5月4日、堺で死去。
享年52。
子孫
江戸時代初期に絵師として活躍し浮世絵の祖といわれる岩佐又兵衛は、信長による処刑から乳母の機転によって生き延びた子孫のひとりとされている。
荒木善兵衛も荒木村重の子であり、落城の際に細川忠興が預かって家中で育てた。
後に荒木善兵衛は丹後大江山の細川家高守城代などを務めた。
大阪府岸和田市荒木町は、伊丹城陥落時に村重の子供が乳母と共に逃れ、後に開発した場所だと伝えられている。
太平記英雄伝
「荒木村重錦絵図」は「荒木村重が餅を食らう」シーンを描いた絵図である。
『太平記英雄伝』によると織田信長に拝謁した時に、「摂津国は13郡分国にて、城を構え兵士を集めており、それがしに切り取りを申し付ければ身命をとして鎮め申す」と言上した。
これに対して、織田信長は腰刀を抜き、その剣先を饅頭を盛っている皿に向けて饅頭3〜5個を突き刺し「食してみろ」と村重の目の前に突き刺した。
周りにいたものは青ざめてしまったが、村重は「ありがたくちょうだいします」と大きな口を開け剣先に貫いた饅頭を一口で食べた。
それを見ていた信長は大きな声を上げて笑い、摂津国を村重に任せたという。
その時の絵図である。
荒木村重はこの時22歳。
織田信長は荒木村重が高槻城を攻略した(白井河原の戦い戦後の影響)事を激賞し、荒木村重がどのような人物なのか、どのような態度をとるのか試したのではないかと考えられている。
『太平記英雄伝』がどこまで史実を伝えているか不明だが、織田信長、荒木村重、両名の人物をよくあらわした錦絵図である。
謀反の理由
村重の織田信長に対する謀反の理由は、諸説があって今でも定かではない。
ただ、信長は村重を高く評価して重用していたため、その反逆に驚愕し、一時は彼としては珍しく翻意まで促したと言われている。
村重は足利義昭や石山本願寺とも親しかったため、両者の要請を受けて信長に反逆した。
村重が支配していた摂津国は当時、中国方面に進出していた豊臣秀吉の播磨国、丹波国方面に進出していた明智光秀らにとって重要な地点であった。
村重が反逆した場合、両者は孤立することになるため、戦略的な謀反だったのではないかという説。
村重の家臣(中川清秀という)が、密かに石山本願寺に兵糧を横流ししていた。
それが信長に発覚した場合の処罰を恐れての謀反であったという説。
信長の側近・長谷川秀一の傲慢に耐えかねたという説(当代記)。
天正元年(1573年)、村重は信長を近江国の瀬田で出迎えたが、このときに信長が刀の先に突き刺して差し出した餅をくわえさせられるという恥辱を味わさせられた。
怨恨説。
黒田孝高と相談の謀略説。
信長暗殺のため後に成功した本能寺のように手勢が手薄なところへ誘き出し夜襲する計画であったという。
そのため信長の遺産を継いで天下人となった秀吉・徳川家康などからは厚遇されることになった。