菅原為長 (SUGAWARA no Tamenaga)
菅原 為長(すがわら の ためなが、保元3年(1158年) - 寛元4年3月28日 (旧暦)(1246年4月15日))は平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿。
初名を忠親、別名高辻 為長とも言う。
保元3年(1158年)、菅原長守(高辻長守)(従四位上・大学頭)の子として生まれる。
元暦2年(1185年)に秀才、次いで文治3年(1187年)に献策。
同年位階に叙爵。
これ以降、五摂家のひとつ九条家の家司として仕えることとなり、その間、九条家の子弟に対して家業である紀伝道(文章道)の教育にも当たる。
以後、官位は兵部省、中務省、式部省等を経て、元久元年(1204年)には歴代菅原氏が叙任される文章博士に昇進。
同年土御門天皇の侍読となり、以降順徳天皇・後堀河天皇・四条天皇・後嵯峨天皇の5代の天皇に渡り侍読を務めることとなる。
建暦元年(1211年)には、従三位に昇叙。
公卿に列せられるが、菅原氏から公卿を輩出するのは、1009年に薨去した菅原輔正以来、200数年ぶりの快挙であった。
(既に1歳年少の氏長者菅原在高が従三位となっていた事実は措いておくとしても)
更に建保3年(1215年)には大蔵省に転任。
以後薨去まで同職に留任することなる。
(参議に任じられていた2年間を除く)
承久3年(1221年)には正三位に昇叙。
次いで同閏10月には文章博士、大学頭と並び歴代の菅原氏が叙任される式部大輔を兼任する。
そして終に嘉禎元年(1235年)には、悲願である参議に叙任される(同年6月に勘解由使長官を兼任)。
為長の参議叙任は菅原氏においては前述の菅原輔正以来、実に226年ぶりの出来事であり、従三位に叙せられたこと以上の大事件であり、彼の参議叙任に関しては、世間から賛否の渦が生ずることとなった。
(「吾妻鏡」承久三年閏十月十日より)
嘉禎3年(1237年)には参議を辞職。
以後没年まで大蔵卿と勘解由使長官を兼任。
仁治元年(1240年)11月には正二位に叙せられる。
そして寛元4年(1246年)3月28日薨去。
享年89。
為長の事跡と子孫たちへの影響
菅原為長が正二位・参議・大蔵卿叙任という栄誉を勝ち得た理由としては、89歳まで生きたその生命力もさることながら次のようなことが挙げられるだろう。
30年以上にわたる大蔵卿在任中に蓄積した経済力
大江広元が鎌倉幕府政所初代別当に就任するということに代表されるように、家業の文章道におけるライヴァル的存在の大江氏が朝廷の中心から離脱したこと。
彼が家司として務めていた九条家、特に九条道家が鎌倉幕府に対して親幕府的な態度をとっていたことで承久の乱以降も九条道家の政治顧問として朝廷の中枢に留まった事。
為長と幕府との関係は北条政子から『貞観政要』の和訳を依頼され、その任に応えている点からも伺う事が可能である(「玉蕊」嘉禎元年正月二十三日)。
九条家のブレーンとしての実力は、天皇五代に渡って侍読を務めていたことからも証明できるものと考えられ、同じ時期に九条家に仕えた藤原定家からも高く評価されている。
また、世間から「文道棟梁」「今世之宏才」「当代大才」「国之元老」という賛辞が彼に送られたことも彼の子孫にとって大いなる栄誉となり、明治維新まで堂上家(高辻家・五条家・東坊城家等の六家)として存続できたことの大きな要因となった。
子供に、高辻長成(正二位・参議)(1205年-1281年)、五条高長(従二位・式部大輔)(1210年-1284年)(五条家の祖)等がいる。
主な著作には『帝国系図』(現存せず)『文鳳抄』『国史綱要』などがある。
あまたの詩文、願文を残すとともに漢籍の保存にも貢献した。
更に日記として『菅大府記』(現存せず)『編御記』(『為長卿記』)がある。
他にも『十訓抄』の著者に擬せられている。