菅原道真 (SUGAWARA no Michizane)

菅原 道真(すがわら の みちざね、みちまさ、どうしん、正字体では菅原 道眞、承和 (日本)12年6月25日 (旧暦)(845年8月1日) - 延喜3年2月25日 (旧暦)(903年3月31日))は日本の平安時代の学者、漢詩人、政治家である。
特に漢詩に優れた。
33歳のときに文章博士に任じられる。
宇多天皇に重用され右大臣にまで昇った。
しかし、左大臣藤原時平に讒訴され、大宰府へ権帥として左遷されそこで没し、為に、朝廷に祟りをなし天神として祀られる。
現在は学問の神として親しまれる。

家系

父は菅原是善(これよし)、母は伴(とも)氏(名は不詳)。
菅原氏は、道真の祖父菅原清公(きよとも)のとき土師氏より氏を改めたもの。
祖父と父はともに文章博士(もんじょうはかせ)を務めた学者の家系であり、当時は中流の公家であった。
母方の伴氏は、大伴旅人、大伴家持ら高名な歌人を輩出している(古代の大伴氏が淳和天皇の避諱で改名した)。

正室は島田宣来子(島田忠臣の娘)。
子は長男・菅原高視や五男・菅原淳茂(父の没後に文章博士)をはじめ男女多数。
子孫もまた学者の家として長く続いた。
高視の曾孫・道真五世の孫が菅原孝標で、その娘菅原孝標女(『更級日記』の作者)は道真の六世の孫に当たる。

道真は学問だけでなく、武芸にも優れ、若い頃都良香亭で矢を百発百中射ったという伝承もある。
しかし、この伝承については疑わしい点が多いとも言われる。

道真の子孫の地域として岡山県勝央町が例で、高視を含め7代知頼が従五位備中美作守 として赴任。
菅家之組となり、その子、眞兼が美作押領使として定着。
眞兼の後3代目が、菅家7流の祖と言われる現在の姓で有元・広戸・福光・植月・原田・高取・江見となる。
太平記では山名氏と赤松方として争い、また隠岐島から脱出した後醍醐天皇と共に菅家党として、元徳2年(1330年)4月3日、京都猪熊合戦で武田ら鎌倉幕府の六波羅軍と戦った。
その時に戦死した高取種佐は、大正8年(1919年)11月、勤皇の功績で正五位を贈られた。
菅一族は他文献にも散見する。
いわゆる国人衆として在地に地盤を築き上げていった。
有名な子孫として、柳生宗厳、前田利家、大隈重信、菅直人、松平定知などがいるといわれるが、著名であるがゆえに仮冒が多い点にも留意すべきである。

生涯

喜光寺(奈良市)の寺伝によれば、道真は現在の奈良市菅原町周辺で生まれたとされる。
ほかにも菅大臣神社(京都市下京区)説、菅原院天満宮(京都市上京区)説、吉祥院天満宮(京都市南区)説もあるため、本当のところは定かではない。

道真は幼少より詩歌に才を見せ、貞観 (日本)4年(862年)、18歳で文章生となった。
貞観9年(867年)には文章生のうち二名が選ばれる文章得業生となり、正六位下に叙せられ、下野権少掾となる。
貞観12年(870年)、方略試に合格し正六位上に叙せられ、翌年には玄蕃助、さらに少内記に遷任。
貞観16年(874年)には従五位下となり兵部少輔、ついで民部少輔に任ぜられた。
元慶元年(877年)、式部少輔に任ぜられた。
同年家の職である文章博士を兼任する。
元慶3年(879年)、従五位上に叙せられる。
仁和2年(886年)、讃岐守を拝任、式部少輔兼文章博士を辞し、任国へ下向。
仁和4年(888年)、阿衡事件に際して、藤原基経に意見書を寄せて諌めたことにより、事件を収める。
寛平2年(890年)、任地讃岐国より帰京した。

これまでは家の格に応じた職についていた道真は、宇多天皇の信任を受け、以後要職を歴任することとなる。
皇室の外戚として権勢を振るいつつあった藤原氏に当時有力者がいないこともあり、宇多天皇は道真を用いて藤原氏を牽制した。
寛平3年(891年)、蔵人頭に補任。
ついで式部少輔と左中弁を兼務。
翌年、従四位下に叙せられ、左京大夫を兼任。
さらに翌年には参議式部大輔に補任。
左大弁・勘解由長官・春宮亮を兼任。
寛平6年(894年)、遣唐使に任ぜられるが、道真の建議により遣唐使は停止された(延喜7年(907年)に唐が滅亡したため、遣唐使の歴史にここで幕を下ろすこととなった)。
寛平7年(895年)には従三位権中納言に叙任。
春宮権大夫を兼任。
長女衍子を宇多天皇の女御とした。
翌年、民部卿を兼任。
寛平9年(897年)には娘を宇多天皇の子・真寂法親王の妻とした。
同年、宇多天皇は醍醐天皇に譲位したが、道真を引き続き重用するよう強く醍醐天皇に求め、藤原時平と道真にのみ官奏執奏の特権(いわゆる「内覧」)を許した。
正三位権大納言に叙任し、右近衛大将・中宮大夫を兼任する。
またこの年には宇多天皇の元で太政官を統率し、道真とも親交があった右大臣源能有(文徳天皇の皇子・宇多天皇の従兄弟)が没している。

醍醐天皇の治世でも道真は昇進を続けるが、道真の主張する中央集権的な財政に、朝廷への権力の集中を嫌う藤原氏などの有力貴族の反発が表面化するようになった。
また、現在の家格に応じたそれなりの生活の維持を望む中下級貴族の中にも道真の進める政治改革に不安を感じて、この動きに同調するものがいた。
昌泰2年(899年)、右大臣に昇進し右大将を兼任。
翌年、三善清行は道真に止足を知り引退して生を楽しむよう諭すが、道真はこれを容れなかった。
延喜元年(901年)、従二位に叙せられたが、斉世親王を皇位に就け醍醐天皇から簒奪を謀ったと誣告され、罪を得て大宰権帥(だざいごんのそち)に左遷される。
宇多上皇はこれを聞き醍醐天皇に面会してとりなそうとしたが、醍醐天皇は面会しなかった。
長男菅原高視を初め、子供4人が流刑に処された(昌泰の変)。

道真は延喜3年(903年)、大宰府で没し同地に葬られた(現在の太宰府天満宮)。
道真が京の都を去る時に詠んだ「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」は有名。
その梅が、京の都から一晩にして道真の住む屋敷の庭へ飛んできたという「飛び梅伝説」も有名である。

官歴

※日付は全て旧暦

貞観_(日本)4年(862年)5月17日、文章生となる。

貞観9年(867年)

1月7日 文章得業生となる。

2月29日 正六位下に叙し、下野権少掾に任官。

貞観12年(870年)9月11日 正六位上に昇叙。
下野権少掾如元。

貞観13年(871年)

1月29日 玄蕃助に転任。

2月2日 少内記に遷任。

貞観16年(874年)

1月7日 従五位下に昇叙。

1月15日 兵部少輔に任官。

2月29日 民部少輔に遷任。

貞観19年(877年)

1月15日 式部少輔に遷任。

改元して元慶元年10月18日 文章博士を兼任。

元慶3年(879年)1月7日 従五位上に昇叙。
式部少輔・文章博士如元。

元慶7年(883年)

1月11日 加賀権守を兼任。

4月 治部権大輔を兼任。

仁和2年(886年)1月16日 讃岐守に遷任。

仁和6年(890年) 讃岐守任期満了。

寛平3年(891年)

2月29日 蔵人頭に補任。

3月9日 式部少輔を兼任。

4月11日 左中弁を兼任。

寛平4年(892年)

1月7日 従四位下に昇叙。
蔵人頭・式部少輔・左中弁如元。

12月5日 左京大夫を兼任。

寛平5年(893年)

2月16日 参議に補任。
式部大輔兼任。

2月22日 左大弁兼任。
式部大輔去る。

3月15日 勘解由長官を兼任。

4月1日 春宮亮を兼任。

寛平6年(894年)

8月21日 遣唐大使に補任。

9月30日 遣唐使を停止。

12月15日 侍従を兼任。

寛平7年(895年) 近江守を兼任。

10月26日 従三位に昇叙し、権中納言に転任。

11月13日 春宮権大夫を兼任。

寛平8年(896年)8月28日 民部卿を兼任。

寛平9年(897年)

6月19日 権大納言に転任し、右近衛大将を兼任。

7月13日 正三位に昇叙し、権大納言・右近衛大将如元。

7月26日 中宮大夫を兼任。

昌泰2年(899年)2月14日 右大臣に転任し、右近衛大将如元。

昌泰4年(901年)1月25日 大宰権帥に遷任。

改元して延喜元年 従二位に昇叙し、右大臣・右近衛大将如元。

延喜3年(903年)2月25日 薨去。

延喜22年(923年)4月20日 右大臣に復し、贈正二位。

正暦4年(993年)

5月20日 追贈正一位左大臣。

10月20日 追贈太政大臣。

事績・作品

著書には自らの詩、散文を集めた『菅家文草』全12巻(昌泰3年、900年)、大宰府での作品を集めた『菅家後集』(延喜3年、903年頃)、編著に『類聚国史』がある。
日本紀略に寛平5年(893年)、宇多天皇に『新撰万葉集』2巻を奉ったとあり、現存する、宇多天皇の和歌とそれを漢詩に翻案したものを対にして編纂した『新撰万葉集』2巻の編者と一般にはみなされるが、これを道真の編としない見方もある。

私歌集として『菅家御集』などがあるが、後世の偽作を多く含むとも指摘される。
『古今和歌集』に2首が採録されるほか、「北野の御歌」として採られているものを含めると35首が勅撰和歌集に入集する。

六国史の一つ『日本三代実録』の編者でもあり、左遷直後の延喜元年(901年)8月に完成している。
左遷された事もあり編纂者から名は外されている。

祖父の始めた家塾・菅家廊下を主宰し、人材を育成した。
菅家廊下は門人を一門に限らず、その出身者が一時期朝廷に100人を数えたこともある。
菅家廊下の名は清公が書斎に続く細殿を門人の居室としてあてたことに由来する。

和歌

海ならず 湛へる水の 底までに 清き心は 月ぞ照らさむ
東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな(初出の『拾遺和歌集』による表記だが、後世、「春な忘れそ」とも書かれるようになった)

死後

菅原道真の死後、京には異変が相次ぎ、醍醐天皇の皇子が次々に病死した。
さらには朝議中の清涼殿が落雷を受け、朝廷要人に多くの死傷者が出た。
これらが道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行った。
子供たちも流罪を解かれ、京に呼び返された。

延喜22年4月20日(913年6月2日)、従二位大宰権帥から右大臣に復し、正二位を贈ったのを初めとし、正暦4年(993年)には贈正一位左大臣、同年贈太政大臣(こうした名誉回復の背景には道真を讒言した時平の早死にで子孫が振るわなかったために、宇多天皇の側近で道真にも好意的だった時平の弟・藤原忠平の子孫が藤原氏の嫡流となった事も関係しているとされる)。

清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられた。
火雷天神が祭られていた京都の北野に北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとした。
以降、百年ほど大災害が起きるたびに道真の祟りとして恐れられた。
こうして、「天神様」として信仰する天神信仰が全国に広まることになる。
やがて、各地に祀られた祟り封じの「天神様」は、災害の記憶が風化するに従い道真が生前優れた学者・詩人であったことから、後に天神は学問の神として信仰されるようになっている。

江戸時代には昌泰の変を題材にした芝居、『天神記』『菅原伝授手習鑑』『天満宮菜種御供』等が上演され、特に『菅原伝授手習鑑』は人形浄瑠璃・歌舞伎で上演されて大当たりとなり、義太夫狂言の三大名作のうちの一つとされる。
現在でもこの作品の一部は人気演目として繰返し上演されている。

近世、特に戦前期では皇室の忠臣としても扱われ、紙幣に肖像が採用された。
昭和3年(1928年)に講談社が発行した雑誌「キング (雑誌)」に、「恩賜の御衣今此に在り捧持して日毎余香を拝す」のパロディ「坊主のうんこ今此に在り捧持して日毎余香を拝す」が掲載されたところ、講談社はもとより伊香保温泉滞在中の講談社社長野間清治の元にまで暴漢らが押し寄せた。

その他

今や学問の神様だが当時の普通の貴族であり、妾もいれば、遊女遊びもしている。
とりわけ、在原業平とは親交が深く、当時遊女(あそびめ)らで賑わった京都大山崎を、たびたび訪れている。

道真は胃弱だったようであり、胃の痛みを和らげるためいつもお腹の上に暖めた石(温石)を乗せていたことが文献に記されている。

大阪市東淀川区にある「淡路」「菅原」の地名は、道真が大宰府に左遷される際、当時淀川下流の中洲だったこの地を淡路島と勘違いして上陸したという故事にちなんだ地名である。

[English Translation]