菊亭晴季 (KIKUTEI Harusue)

菊亭 晴季(きくてい はるすえ、天文 (元号)8年(1539年) - 元和 (日本)3年3月28日 (旧暦)(1617年5月3日))は、安土桃山・江戸時代前期の公卿。
菊亭家は別号を今出川家とも称する。

生涯

左大臣菊亭公彦の子として、天文8年(1539年)に誕生する。
初名実維。
天文14年(1545年)元服し、晴季と改名する。
天文17年(1548年)従三位に叙せられ、公卿に列する。
天正7年(1579年)内大臣、天正13年(1585年)に従一位右大臣にまで昇る。

晴季は豊臣秀吉と親密な間柄で、織田信長亡き後、秀吉が天下人として、征夷大将軍の位を得ようとし、足利義昭の猶子となろうと工作したものの、義昭の拒否に遭い、将軍職を諦めていた所に関白任官を持ちかけ、朝廷における斡旋、調停役を務めた。
これにより晴季は朝廷内で重きをなしたが、秀吉の甥で養子の関白豊臣秀次に娘を嫁がせていたため、文禄4年(1595年)8月に秀次が謀反の疑いを懸けられ高野山で自害を強いられ、秀次の一族妻妾が殺されると、これに連座し、越後国に流罪となり失脚した。

翌慶長元年(1596年)赦されて帰京する。
秀吉没後、慶長3年(1598年)12月、右大臣に還補された。
慶長8年(1603年)正月右大臣を辞任。
元和3年(1617年)3月28日薨去。
享年79。
法名景光院月叟常空。
墓は京都上京区上善寺にある。

真田氏との関係

娘(山之手殿)が真田昌幸に嫁ぎ、真田信幸(信之)・真田信繁(幸村)らを産んだとされていたが、今日ではほとんど否定されている(今日、山之手殿は宇多頼忠の娘であるとされている)。

信繁の側室・隆清院は豊臣秀吉の甥・豊臣秀次と晴季の娘(一の台)の子で、晴季の孫にあたるとされる。

[English Translation]