蒲生定秀 (GAMO Sadahide)

蒲生 定秀(がもう さだひで)は、戦国時代の武将。
近江国日野城城主。

生涯

永正5年(1508年)、蒲生高郷の子として生まれる。
父と共に南近江の戦国大名・六角氏の家臣として仕えた。
定秀の父・高郷は蒲生氏の分家で、本家の家督は定秀の従兄弟・蒲生秀紀が継いでいたが、秀紀が室町幕府寄りであったのに対し、高郷・定秀は主君・六角定頼の信任を受けていたため、その後ろ盾を得て「定」の一字を賜って定秀と名乗り、大永2年(1522年)に秀紀を攻撃し、当時の蒲生氏の居城であった音羽城を破却した。
さらに大永5年(1525年)、鎌掛城にあった秀紀を謀殺(毒殺と言われている)し、蒲生氏の家督を継いだのである。
その後、天文年間前半に日野城(中野城)を築き居城とした。

定秀は定頼の家臣として享禄3年(1530年)の京都出陣や享禄4年(1531年)の浅井亮政との戦いなどでは29の首級を挙げるなど(蓑浦の戦い)、定頼の主要な合戦の大半に参加し、大いに武功を挙げた。
天文 (元号)18年(1549年)には三好長慶と摂津国で戦っている。
天文21年(1552年)の定頼死後はその子・六角義賢に仕え、伊勢国攻略を任されるなど活躍した。

永禄元年(1558年)に出家する。
永禄2年(1559年)には浅井久政の属城であった佐和山城を攻撃している。

次男・青地茂綱を佐々木氏の青地氏、3男・小倉実隆を伊勢攻略の前任者である小倉氏の養子に入れ、娘を伊勢の関盛信、神戸具盛に嫁がせるなど、婚姻政策によって独自の勢力を築いた。

内政面にも優れ、定頼の信任を受けて城下町の形成や商業対策などを行なっている。
日野椀の製造は城下町の成立と共に始められた。
また、鉄砲の重要性を早くから認識しており、日野城下に鉄砲職人を招聘している(従前の刀鍛冶を転職させたという説もある)。

永禄6年(1563年)、六角氏内部にて観音寺騒動が起こると、後藤高治、続いて主君・六角義治を匿ってその調停と収拾に尽力した。
永禄10年(1567年)の六角氏式目にも六角氏の宿老として署名している。

永禄11年(1568年)、六角氏が滅亡した後は織田信長に仕えた。
天正7年(1579年)に死去。
享年72。

人物・逸話

六角家の重臣の中では重鎮の中の重鎮であり、永禄5年(1562年)には徳政令を独自に発布している。

六角定頼とは主従の絆で結ばれていたが、六角義賢の時代からは主従の力が逆転してむしろ定秀の力のほうが上であり、永禄7年(1564年)には観音寺騒動で居城を追われて生活苦にあえぐ義賢に対して金銭を貸し、しっかりと返済の約束も取り付けたりしている。

[English Translation]