藤原伊子 (FUJIWARA no Ishi)
藤原伊子(ふじわら の いし、生没年不詳)は、平安時代末期の女性。
父は関白松殿基房。
木曾源氏の武将源義仲の正室、のち公卿源通親の側室となり道元を生んだ。
官位は従三位。
松殿伊子とも書く。
冬姫とも伝わる。
藤原北家嫡流の一人である藤原基房の娘として誕生。
寿永2年(1183年)11月19日、源義仲が後白河法皇の御所法住寺殿を襲撃するというクーデターを決行。
これにより一時的に独裁権力を獲得した義仲は、後白河院政の体制下で干されていた状態だった松殿家の基房と接近した。
基房は近衛家に関白の座を奪われて以来、失地回復を狙っていたのでこれをチャンスと見て義仲に協力した。
11月21日に義仲は基房の娘伊子を正室とした。
時に伊子十七歳という。
さらに同日、義仲は幽閉した後鳥羽天皇を通じて除目を行い、摂政近衛基通を解任して、伊子の弟松殿師家をかわりの摂政とした。
こうして一時的に義仲と松殿家に天下が訪れたが、関東では法皇幽閉を聞きつけた鎌倉源氏がいよいよ挙兵に及ぶ。
源範頼と源義経の軍が京都へ向かって進軍を開始した。
『源平盛衰記』には、源義経に攻められている最中、義仲が五条内裏で伊子といつまでも別れを惜しんでいたので、越後中太能景(『平家物語』には家光とある)と加賀国住人の津波田三郎が切腹してこれを諌めたとする逸話が記されている。
夫義仲の敗死後は父の山荘で暮らしていたが、再び父基房の権勢復興のための政略結婚に使われ、今度は公卿源通親の側室とされた。
この通親は、後白河法皇崩御後に朝廷政治の第一人者となり、「源博陸」と称される程の権勢を誇っていた人物である。
正治2年(1200年)1月2日、宇治木幡山荘において通親との間に道元(曹洞宗開祖)を儲けた。
のち伊子の弟師家はこの道元を養子に迎えて、松殿家の復興を目指したが、結局それには至らなかった。
2年後に通親とも死別した。
伊子は道元とともに木幡山荘に移り住んだが、5年後の道元8歳の時に病で死去したという。
道元が出家を志したのは幼い日に両親と死別することになったためだという。