藤原佐世 (Fujiwara no Sukeyo)
藤原 佐世(ふじわら の すけよ、承和_(日本)14年(847年)- 寛平9年(897年))は平安時代前期の廷臣、学者。
藤原式家の出身で、藤原種継の曾孫に当たる。
父は民部大輔藤原菅雄。
従四位下、大学頭、式部少輔、右大弁。
略史
藤原基経の家司を務める。
菅原是善門下で学を修め、文章得業生となり、元慶3年(879年)には陽成天皇の侍読の任に当たるなど、次第に学者としての名声を確立した。
文章博士の地位にあった仁和3年(887年)、橘広相が作成した宇多天皇から基経への詔勅にあった「阿衡」の文字に関し、「阿衡には位貴しも、職掌なし」という見解を発して、所謂「阿衡の紛議」を引き起こした。
基経が没した寛平3年(891年)、陸奥守に任じられ、事実上中央政界から排斥された。
寛平9年に右大弁に任ぜられ、帰洛の途に着くもその途中に病没したとされる。
また一説には、没年は昌泰元年(898年)であるともいう。