藤原俊憲 (FUJIWARA no Toshinori)
藤原 俊憲(ふじわら の としのり、保安 (元号)3年(1122年)- 仁安 (日本)2年(1167年))は平安時代後期の廷臣、学者。
信西こと藤原通憲の長男。
母は高階重仲の娘。
参議藤原顕業の養子となる。
正四位下、参議。
若年より実父信西譲りの才智をもって登用され、大学権助、東宮学士などを経て、保元元年(1156年)の保元の乱の後の除目で右少弁に任官。
以後、父の権勢をも背景として要職を歴任し、左少弁蔵人、左衛門権佐、東宮学士を兼帯した際には「希代」のことと評された(『兵範記』・保元2年(1157年)10月23日条)。
平治元年(1159年)に参議に至るが、同年平治の乱が勃発。
父信西は殺害され、さらに戦後、戦乱を招いた責任によりその子息は悉く流罪に処せられる。
俊憲も解官の上越後国(後に阿波国に変更)に配流となり、これを契機に出家して法名を真寂と称した。
翌永暦 (日本)元年(1160年)には召還されるが、その後は表舞台に立つことなく、仁安2年に死去した。
『愚管抄』や『古事談』『続古事談』にその文才を物語る逸話があり、また『玉葉』元暦元年(1184年)7月9日条にも、かつて俊憲が「後白河院のもとでは戦乱が止まないであろう」と予言していたことが「聖人格言」として紹介されている。
著書として『新任弁官抄』『貫首秘抄』があり、また歌人としても『千載和歌集』『新勅撰和歌集』にもその作が入選している。