藤原信長 (FUJIWARA no Nobunaga)
藤原 信長(ふじわら の のぶなが、治安 (元号)2年(1022年) - 寛治8年9月3日 (旧暦)(1094年10月14日))は、平安時代中期から後期にかけての公卿。
藤原教通の三男。
母は藤原公任の娘。
従一位太政大臣。
九条太政大臣と称される。
経歴
1032年(長元5年)に元服し、従五位下に叙せられる。
権中納言・大納言・内大臣などを歴任する。
1080年(承暦4年)太政大臣に至った。
この間、父教通は関白を信長に譲ろうとしたが、果たせずに1075年(承保2年)に没した。
以後従兄弟である藤原師実と摂関の地位を巡る激しい権力闘争を続けたが師実が摂関の地位に就任した。
1080年(承暦4年)8月公家中最高位の地位である太政大臣に至ったものの、師実の養女で白河天皇の寵愛していた后・藤原賢子の計らいで2ヵ月後関白左大臣である師実が全公卿の筆頭(つまり信長より上位)とする勅命が出された。
激怒した信長は牛車を焼き捨てて自宅に閉じ籠ったという。
1088年(寛治2年)従一位に叙せられるが、3日後に辞した。
1094年(嘉保元年)9月3日、老いと病気により出家するが同日没している。