藤原兼光 (FUJIWARA no Kanemitsu)

藤原 兼光(ふじわら の かねみつ、久安2年(1146年) - 建久7年4月23日 (旧暦)(1196年5月22日))は、平安時代末期の公卿。
日野流権中納言藤原資長の子。
母は源季兼の娘。
子に日野資実(日野家の祖)・広橋頼資(広橋家の祖)がいる。

保元元年(1156年)に勧学院学問料を支給されていることから、大学寮で紀伝道を学んでいたことが知られる。
2年後に文章得業生となり、永暦 (日本)元年(1160年)に対策に及第して従五位下修理亮兼右近衛少尉となり、使宣旨を賜った。
応保3年(1163年)に治部少輔に任じられ、翌年に昇殿を許された。
仁安 (日本)元年(1166年)に治部少輔のまま従五位上東宮学士となる。
翌年正五位下に叙され、仁安3年(1168年)には蔵人兼備中権介となり東宮学士を辞した。
嘉応元年(1170年)に右少弁、承安 (日本)2年(1172年)に左少弁に任じられた。
治承3年(1179年)には右中弁に勧学院弁別当を兼ね、更に造東大寺長官を兼ねて従四位下に昇る。
養和元年(1181年)には左中弁に進み、造興福寺長官となる。
寿永元年(1182年)に正四位下に昇り、翌年には安徳天皇の蔵人頭に任命される.
しかし、同天皇の西下には従わずに引き続き後鳥羽天皇の蔵人頭を務め、続いて参議兼右大弁に転じる。
元暦元年(1184年)には従三位左大弁となり近江権守を兼ねた。
公卿昇任が間近と言われていた院近臣の藤原隆房よりも先に公卿に列したために、義母で後白河法皇の寵愛を受けた高階栄子(丹後局)の後ろ盾があったとされた。
文治元年(1185年)に勘解由長官、翌年に権中納言に任じられる。
建久元年(1190年)に右兵衛督を、建久2年(1191年)には検非違使別当を兼務、建久4年(1193年)には右衛門督転じて、京都の治安回復に尽力した。
建久5年(1194年)に右衛門督・検非違使別当を辞任、翌年に従二位に叙される。
だが、建久7年(1196年)に腫物の病で4月12日に出家し間もなく死去した。

高倉天皇・後鳥羽天皇の侍読を務め、歌人としても『千載和歌集』・『新古今和歌集』など3つの勅撰和歌集に採録される。
また、日記『姉言記』(『兼光卿記』)が伝わる。
学識に優れ、実務にも長けた官人として平家政権・後白河院政両方において重んじられた。

[English Translation]