藤原兼隆 (FUJIWARA no Kanetaka)

藤原 兼隆(ふじわら の かねたか、 寛和元年(985年)- 天喜元年(1053年))は平安時代の公卿。
関白藤原道兼の次男。
母は藤原遠量の娘。
妻は源扶義の娘、藤原宣孝の娘(通称大弐三位、母は紫式部)など。
子に藤原兼房 (中宮亮)らがある。
正二位、中納言。
粟田左衛門督と号す。

福足君と呼ばれた兄が夭折したため、嫡男として育てられる。
父の道兼は長徳元年(995年)に関白に就任するが、在任僅か二週間にも満たずに急死。
その後、権力の座は叔父の藤原道長に移る。
同じく道長を叔父とする従兄弟の藤原伊周・藤原隆家兄弟はこれに反抗したが、兼隆はそのような動きを見せることなく、以後道長の側近としての道を歩んだ。
長保4年(1002年)に従三位右中将に昇任して公卿に列し、寛弘5年(1008年)参議、長和2年(1013年)正三位、寛仁5年(1021年)左衛門督、治安 (元号)3年(1023年)中納言、同4年(1024年)正二位という具合に順調に出世。
長元8年(1035年)に中納言を辞任し、寛徳3年(1046年)に出家。

藤原実資の日記『小右記』の中では粗暴な一面も描かれており、長和2年(1013年)に自家の厩舎人を殴殺させたこや、その翌年実資の下女の家を破壊、掠奪せしめたことなどが記述されている。
また『大鏡』においては、敦明親王の皇太子辞退に関与したとされている。

なお、後世の系図では宇都宮氏の祖にも擬せられるが、この点については諸説があり必ずしも定かではない。

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