藤原利仁 (FUJIWARA no Toshihito)
藤原 利仁(ふじわら の としひと、生没年不詳)は、平安時代中期の武将。
藤原北家藤原魚名流。
祖父藤原高房は受領を歴任したほか盗賊の取締りで名を上げた人物。
父は民部卿藤原時長(中納言藤原山蔭の同母兄弟)。
母は越前国出身の秦豊国女。
室に丹波国目伴統忠女、四品輔世王女などがあったほか、越前国敦賀の豪族藤原有仁の娘婿ともなっていた。
左近将監などを経て、延喜11年(911年)上野国介となり、翌12年(912年)に上総国介に任じられる。
そのほか下総国介や武蔵国守など坂東の国司を歴任した。
同15年(915年)には下野国高蔵山で貢調を略奪した群盗数千を鎮圧し武略を天下に知らしめたということが『鞍馬蓋寺縁起』に記されている。
この年には鎮守府将軍となり、その最終位階は従四位下であったとされる。
後代、平安時代の代表的な武人として伝説化され多くの説話が残された。
なかでも『今昔物語集』の中にある、五位の者に芋粥を食べさせようと京都から敦賀の舘へ連れ帰った話などが有名である(芥川龍之介はこの話を題材に小説『芋粥』を執筆している)。
次男の藤原叙用が、斎宮頭となり、斎藤氏の祖となる。
その孫の代では忠頼が加賀国介となり、加賀斎藤氏、弘岡斎藤氏、牧野氏の祖となり、加賀斎藤氏から堀氏、弘岡斎藤氏から富樫氏、林氏が出る。
叙用の孫為時の家系からは吉田氏、前田氏、尚忠から吉原斎藤氏、河合斎藤氏、美濃斎藤氏が出たほか、重光から加藤氏、遠山氏が出る。
また、一女は藤原秀郷の孫にあたる藤原文脩の室となり藤原文行、兼光らの母となった。
利仁の後裔を称する氏族は多く仮冒は少ない。
また藤原秀郷と並んで藤原氏の武家社会への進出を象徴する人物と言える。