藤原宗能 (FUJIWARA no Muneyoshi)
藤原 宗能(ふじわら の むねよし、永保3年(1083年)-嘉応2年2月(1170年))は、平安時代後期の公卿。
本名は宗隆。
藤原宗忠の子で、母は美濃守藤原行房女。
同母弟に藤原宗成・藤原宗重がいた。
室は左大弁藤原為隆女・中納言藤原長実女らがおり、子に藤原宗親・藤原成能・藤原宗家・尊誉らがいた。
中御門内大臣と号した。
承徳元年(1097年)正月、中宮(篤子内親王)御給により叙爵。
翌年弟宗成と共に元服。
越前守、五位蔵人、近江介・右近中将などを歴任、大治5年(1130年)10月に崇徳天皇の蔵人頭に補任され、翌年の天承元年(1131年)参議となり、以後累進して永暦2年(1161年)に内大臣に至る。
議政官として中宮(藤原聖子)権大夫・右兵衛督・右衛門督・検非違使別当・皇太后宮(藤原聖子)大夫などを兼帯した。
またこの間、権大納言の地位にあった保元元年(1156年)には、重篤となっていた鳥羽法皇に対し、その死後予想される兵乱に備えるよう奏上している(『愚管抄』)。
長寛2年(1164年)息子宗家の正三位を申請し上表。
仁安 (日本)3年(1168年)年6月出家。
嘉応2年(1170年)2月、88歳で薨去。
中御門大路に邸宅を持っていたので中御門内大臣と呼ばれ、日記『中内記』を記したことが知られる。
また父宗忠は、宗能のために自身の日記『中右記』を部類し、その一部は『口言部類』として『続群書類従』公事部に所収されている。