藤原師氏 (FUJIWARA no Morouji)

藤原 師氏(ふじわら の もろうじ、延喜13年1月7日 (旧暦)頃(913年2月20日頃)-天禄元年7月14日 (旧暦)(970年8月23日))は、平安時代中期の公卿。
関白藤原忠平の四男。
母は源能有女源昭子。
藤原師輔・藤原師尹は同母兄弟、藤原実頼は異母兄にあたる。
桃園大納言と称されるが、これは師氏の邸宅名桃園第と極官に因む。
また枇杷大納言とも称す。

延長 (元号)6年(928年)正月、16歳の時に叙爵。
翌延長7年、侍従に任じられ、承平 (日本)4年(934年)には中宮御給によって従五位下に昇進、最終的には正三位大納言に至る。
兄実頼・師輔、弟師尹が大臣まで栄進したのに対し、師氏の極官は大納言であった。
天暦2年(948年)7歳年下の弟師尹が権中納言に任官されて以降は、常に師氏の方が官職が下位にあった。
更に、康保4年(967年)には、師氏の甥藤原伊尹(父は師輔)が権大納言に任官されたことによって、当時中納言であった師氏は、甥よりも官職が下位になった。
このことから、師氏は官位昇進については不遇であったことが窺える。
なお、『宇治拾遺物語』には、近衛大将任官の饗宴の2日前に歿したとあるが、『公卿補任』等の史料には、近衛大将任官の記載はない。
『空也誄』に空也と二世の契りがあったこと、『空也誄』『古事談』等に、師氏薨去に際して、空也が閻魔大王に送る牒文を書いたと伝えている。
また、『蜻蛉日記』には、師氏が宇治に別荘を有していたものの、歿後荒廃してしまったと記す。

和歌に優れ、『和歌色葉集』に名誉歌仙と記載され、『後撰和歌集』『新古今和歌集』等の勅撰集に11首入集されている。
また自身で編んだ私家集『海人手古良(あまのてこら)集』がある。

官歴

※月日は旧暦。
主に『公卿補任』の記載による。

11月11日、皇太子傅を兼任。

[English Translation]