藤原師高 (FUJIWARA no Morotaka)
藤原 師高(ふじわら の もろたか、生年不詳 - 安元3年6月9日 (旧暦)(1177年7月6日))は日本の平安時代後期の受領。
加賀守師高と呼ばれる。
父は後白河天皇の権臣であった西光(俗名:藤原師光)。
伯父に藤原成親、弟に藤原師経・藤原師平がいる。
検非違使五位尉から、父の引き立てで安元元年(1175年)12月29日 (旧暦)、加賀国国司となり、弟の藤原師経を目代として遙任する。
安元3年(1177年)、延暦寺の末寺白山涌泉寺と紛争を起こし、比叡山大衆が神輿を担いで強訴する騒ぎとなったため、師高は尾張国井戸田に流罪、師経は禁獄となった。
同時に天台座主明雲も解任され伊豆国へ配流となったが、大衆が配流途中の明雲を奪回し、叡山に帰還した。
それに対し後白河は清盛に比叡山の攻撃を命じた。
しかしその直後、多田行綱が鹿ケ谷の陰謀を平清盛に密告したため、比叡山攻撃のために集結していた平氏軍は攻撃を取りやめ、陰謀参加者の捕縛にあたった。
首謀者の一人であった父の西光は捕縛のうえ斬首され、師高も同年6月(1177年6月~7月)、小胡麻郡司維季(おぐまのぐんじ これすえ)に討たれ、師経・師平ほか郎党三名もも六条河原で斬首された。