藤原御楯 (FUJIWARA no Mitate)
藤原 御楯(ふじわらのみたて、?-天平宝字8年6月9日(764年7月16日))は奈良時代の貴族、官僚。
藤原北家出身。
初名「千尋」。
淳仁天皇即位直後に「御楯」と改名。
生年に関しては「公卿補任」に「没年五十歳」とある。
しかし、逆算すると次兄・眞楯と同年になる。
そのため、御楯に関するこの記録は、間違いとするのが通説である。
同母兄の藤原永手や眞楯が藤原仲麻呂と対立したのに対し、御楯はその出世内容や親族関係から仲麻呂の側近であったと推測されている。
授刀衛の長官だったことから特に軍事方面を任されていたと思われる。
しかし、仲麻呂に先立って急死したことが、後の藤原仲麻呂の乱で仲麻呂が敗退する間接的な原因であると考えられている。
略伝
(722年頃?) 藤原房前の六男として誕生
天平20年(748年)4月 正六位下から従五位下に昇叙。
(これが史料への初出である)
天平勝宝元年7月2日 従五位上に昇進
天平勝宝2年5月 美濃国守に任ぜられる
美濃は、関所不破関のある要所であった。
天平勝宝9年(757年)5月20日 正五位下に昇叙
同年 8月 正五位上に昇叙
天平宝字2年(758年)8月 従四位下に昇叙(この時「御楯」と記される)
天平宝字3年(759年)6月 従四位上に昇叙
天平宝字5年(761年)正月 参議授刀督の藤原御楯に伊賀国・近江国・若狭国の按察使を兼任させる
同年 8月 正四位上に昇叙
同年 10月 従三位に昇叙
天平宝字8年(764年)6月9日 死去