藤原惟成 (FUJIWARA no Koreshige/ Korenari)

藤原 惟成(ふじわら の これしげ/これなり、天暦7年(953年) - 永祚 (日本)元年(989年))は、平安時代中期の宮廷政治家。
藤原雅材の長男。
母は藤原中正の娘。
「尾張国郡司百姓等解文」で著名な藤原元命は叔父に当たる。
正五位上、権左中弁、左衛門権佐、民部権大輔。
当初の諱名は惟賢。

花山天皇の乳母子であった関係によって早くからその身辺に仕え、その即位後は藤原義懐と並ぶ第一の側近として権勢を振るった。
特に、荘園整理令を初めとする「花山新制」の施行に当たっては、実務面において中心的な役割を担ったとされる。
その権勢は、世上「五位摂政」とまで評されたという。

しかし寛和2年(986年)の政変によって花山天皇が退位・出家に追い込まれると、自らもこれに従い、出家の上政界から引退した。
法名は悟妙、後に寂空と改める。

和歌の道にも造詣が深く、家集として『惟成弁集』がある。

[English Translation]