藤原永手 (FUJIWARA no Nagate)
藤原 永手(ふじわら の ながて、和銅7年(714年) - 宝亀2年2月21日 (旧暦)(771年3月15日))は、奈良時代の政治家。
参議藤原房前の次男。
正一位左大臣、贈太政大臣。
長岡大臣と称する。
経歴
藤原北家の祖藤原房前の次男として生まれる
しかし、長男の藤原鳥養が夭折したため、実質的に藤原北家の長として孝謙天皇の代より重用された。
藤原仲麻呂とは対立関係にあったとされた。
天平宝字元年(757年)の道祖王廃太子の際には、孝謙天皇の皇嗣として藤原豊成とともに塩焼王を推挙した。
(結局、仲麻呂の意中であった大炊王(のちの淳仁天皇)が皇太子となる)
同2年(758年)8月25日に開かれた仲麻呂による官号改易の際の太政官の会議に議政官で唯一欠席している。
仲麻呂が朝廷の全権を把握すると、石川年足あるいは文室浄三についで太政官の第3位にあったものの、政治的には不遇の状況に置かれた。
恵美押勝の乱では孝謙天皇・道鏡側に参加して活躍した。
道鏡政権が成立し右大臣豊成が薨去した天平宝字9年(765年)以後、薨去まで太政官の筆頭公卿の地位を保った。
称徳天皇(孝謙)死後の皇嗣問題では、天武天皇系の文室浄三のちにその弟文室大市を推した吉備真備に対抗した。
藤原式家の藤原良継・藤原百川兄弟とともに天智天皇系の白壁王(のちの光仁天皇)の擁立に尽力した。
また近年、その皇太子については山部親王(のちの桓武天皇)を推した良継らの反対を押し切って、他戸親王を立てたという説が唱えられている。
略歴
天平9年(737年) 従五位下。
天平21年(749年) 従四位下。
天平勝宝2年(750年) 従四位上。
天平勝宝4年(752年) 大倭守。
天平勝宝6年(754年) 従三位。
天平勝宝6年(754年) 太皇太后宮子の崩御の造山司。
天平勝宝8歳(756年) 聖武天皇崩御の際の葬儀司装束司。
天平勝宝8歳(756年) 京職、兼侍従、中務省。
天平勝宝9歳(757年) 中納言。
天平宝字4年(760年) 仁正(光明)皇太后崩御の際の装束司。
天平宝字7年(763年) 兵部省(式部省)。
天平宝字8年(764年) 藤原仲麻呂の乱に際し正三位、大納言。
天平神護元年(765年) 乱鎮圧の功により勲二等。
天平神護元年(765年) 御装束司長官。
天平神護2年(766年) 従二位、右大臣、正二位。
天平神護2年(766年) 道鏡の法王就任に際し、左大臣。
神護景雲3年(769年) 従一位。
神護景雲3年(769年) 孝謙天皇病気により、近衛府・外衛府・左右兵衛府を管轄。
宝亀元年(770年) 称徳天皇崩御に際し、右大臣吉備真備らと協議し、白壁王を擁立し光仁天皇即位。
永手は正一位に昇叙。
宝亀2年(771年)2月21日 病気にて58歳で薨去。
太政大臣を追贈。