藤原為家 (FUJIWARA no Tameie)
藤原 為家(ふじわら の ためいえ、建久9年(1198年)- 建治元年5月1日 (旧暦)(1275年5月27日))は、鎌倉時代中期の公家・歌人。
父は藤原定家。
官位は正二位・大納言。
別称は中院禅師・冷泉禅門・民部卿入道。
経歴
1205年(元久2年)、母方の祖父藤原実宗邸で元服を行い、伯父西園寺公経の猶子となる。
若い頃は蹴鞠に熱中し、同好の順徳天皇に目を掛けられた。
ところが承久3年(1221年)に発生した承久の乱に際して、順徳天皇の佐渡遷幸―配流の供奉者として召されたが、応じなかったという(『承久記』ほか)。
彼の子孫、特に二条家(御子左家嫡流)は和歌とともに鞠道においても重きをなした。
飛鳥井流にならぶ御子左流を形成したが、その始まりは為家に求められる。
承久の乱の後、鎌倉幕府と親しい養父西園寺公経が朝廷の実権を握ったことで、為家も順調に昇進する。
1226年(嘉禄2年)に参議として公卿に列する。
1236年(嘉禎2年)中納言に、1241年(仁治2年)には、父定家を越える大納言にまで昇進した。
為家は後嵯峨院歌壇の中心的な歌人としても活躍。
「宝治百首」に参加し、1251年(建長3年)には「続後撰和歌集」を単独で撰出している。
1256年(康元元年)に出家し、法号を融覚・静真と称した。
1265年(文永2年)には九条基家など4人で「続古今和歌集」を撰進している。
晩年は「十六夜日記」を記した阿仏尼と同棲してその子冷泉為相を溺愛し、遺領相続に関して問題を残した。
「新勅撰和歌集」以下の勅撰和歌集に入集。
家集に「為家集」「中院詠集」「為家卿千首」、歌論集に「詠歌一体」がある。