藤原詮子 (FUJIWARA no Senshi)

藤原 詮子(ふじわら の せんし/あきこ、応和2年(962年) - 長保3年閏12月22日 (旧暦)(1002年2月7日)は、平安時代、第64代円融天皇女御。
第66代一条天皇生母(国母)。
東三条院は女院である。

摂政関白・太政大臣藤原兼家の次女で、母は摂津守藤原中正の女子時姫。
先後して摂関に在職した藤原道隆・藤原道兼・藤原道長、また冷泉天皇女御藤原超子は同母の兄弟。

天元 (日本)元年(978年)8月に入内し、同年11月4日_(旧暦)に女御の宣旨を被る。
同3年(980年)従四位下に叙せられる。
この年の6月1日_(旧暦)に兼家の東三条殿において第一皇子懐仁親王(のちの一条天皇)を生む。
ところが円融天皇の一粒種を生みながら、関白藤原頼忠の女藤原遵子に后の座を奪われたことで、父兼家と共に天皇を恨んで里邸の東三条邸にこもり、天皇のたびたびの召還にも応じなかった。
また遵子立后の際、遵子の兄弟藤原公任は東三条邸の前で自慢げに「この女御は、いつか后にはたちたまふらむ(こちらの女御はいつ立后なさるのか)」と言ったため、兼家・詮子親子の恨みを買ったという。
(『大鏡』)

しかし、所生の一条天皇が即位すると形勢は一変し、寛和2年(986年)7月5日_(旧暦)に皇太后に冊立される。
正暦2年(991年)2月、円融法皇が崩御したが、詮子は同年9月16日_(旧暦)に出家して、皇太后宮職を停めて院号宣下を受け、居宅の東三条邸に因んで東三条院を称した。
これが女院号の嚆矢である。

一条朝にあって国母として強い発言権をもち、しばしば政治に介入したため、藤原実資の日記『小右記』には「国母専朝」と非難された。
また、4歳年下の弟・道長を可愛がって兄道隆・同道兼没後の執政者に彼を推して、甥藤原伊周を圧迫し、ついに兄一家を没落に追い込んだのは著名な話である。
その反面、厚い信仰心をもち、真正極楽寺・慈徳寺を建立した。
また失脚した源高明の末娘源明子を引き取って道長に娶わせたといわれ、一条皇后藤原定子が難産で崩御した際も、残された第二皇女び子内親王(び=女偏に美)を養女とした。

長保3年閏12月、院別当の藤原行成の屋敷にて崩御し、宇治木幡の藤原一族の墓所のうち、宇治陵に葬られた。

なお、『大鏡』及び『栄花物語』には葬儀の際に道長が遺骨を抱持する場面が描かれているがこれは創作であり、史実において骨を抱持したのは詮子の甥藤原兼隆(道兼の子)である。

[English Translation]