藤原道兼 (FUJIWARA no Michikane)

藤原 道兼(ふじわら の みちかね、応和元年(961年)-長徳元年5月8日 (旧暦)(995年6月13日))は、平安時代中期の公卿。
藤原兼家の三男。
母は藤原中正女時姫。
同母の兄弟姉妹に藤原道隆、藤原道長、藤原超子、藤原詮子がいる。
別称は、粟田殿、二条殿、町尻殿。

父兼家の意を受けて花山天皇を唆して出家退位させる。
一条天皇が即位すると外祖父の兼家は摂政となり、道兼も栄達した。
兼家が死去すると道兼の期待に反して長兄の道隆が関白となった。
5年後に道隆が病死すると、待望の関白になるが、その僅か数日後に病死した。
そのため「七日関白」と呼ばれる。

生涯

藤原北家の藤原兼家の三男として生まれる。
雄傑で鬚が多く、狷介な性格だった。

永観2年(984年)8月、花山天皇が即位すると蔵人左少弁となる。
東宮(皇太子)には父兼家の娘の詮子を母とする一条天皇が立てられていた。
花山天皇は兼家の亡兄伊尹の娘の藤原懐子を母としており、伊尹の子の権中納言藤原義懐が天皇を補佐して朝政を執った。
このため、兼家は懐仁親王の早期の即位を望んでいた。

花山天皇は情緒的な性格で、寵愛していた女御藤原忯子が死去すると深く嘆き、思い悩むようになった。
蔵人として近侍していた道兼は元慶寺(花山寺)の厳久とともに仏の教えを説き、出家を勧めた。
道兼がともに出家することを約束すると天皇もその気になってしまう。

寛和2年(986年)6月23日丑の刻、道兼は花山天皇を密かに内裏から抜け出させる。
道兼は天皇が途中で足を止めるのをかき口説き、山科区の元慶寺まで連れてきた。
天皇は厳久に戒を受けて剃髪した。
ところが、道兼は「父に告げずに出家すれば不幸になると思い立ちました。
父に別れを告げ、出家前の姿を一目見せたいと思います」と言うや、寺から立ち去ってしまった。
天皇は騙されたと知るが、すでに手遅れ。
一方、宮中では兼家と兄の道隆が東宮の即位の準備を手早く済ませていた。
翌朝、義懐と左中弁藤原惟成が元慶寺に駆けつけるが、出家した天皇の姿を見て絶望し、彼らも出家した。

幼い懐仁親王が即位(一条天皇)。
外祖父の兼家は摂政に任じられた。
兼家の息子たちも昇進させられ、功労者の道兼は同年7月参議となったのを皮切りに、10月には従三位権中納言。11月、正三位、永延元年(987年)従二位、永祚 (日本)2年(989年)正二位権大納言と累進を重ねた。

正暦元年(990年)兼家が病んだのち死去すると、後任の関白には長兄の道隆が任じられた。
『大鏡』によると、自分は父に功があったのだから、当然に関白を継ぐべきだと望んでいたのに道隆が後継に選ばれたことを甚だ憎み、父の喪中であるにもかかわらず客を集めては遊興にふけったという。

道隆の政権下で、同2年(991年)内大臣、同5年(994年)右大臣へと進む。

長徳元年(995年)兄の関白道隆が重い病に伏した、道隆は後継の関白に嫡男の内大臣藤原伊周を望むがこれは許されず、4月10日に死去した。
4月27日に道兼は関白宣下を受ける。
ところが、ほどなく道兼は病になり、5月8日に没した。
世に「七日関白」(在任は7日ではない、一説には宮廷に関白として初参内してから7日目であったからだともいう。なお、道兼は関白在任中に1度だけ陣定を開催している)と称された。
死後、正一位太政大臣を追贈された。

子女には、宇都宮氏の祖となった中納言藤原兼隆、一条天皇の女御となった藤原尊子がいる。

官歴
天延3年(975年)
1月7日 (旧暦):従五位下に叙位
天元 (日本)2年(979年)
12月2日 (旧暦):侍従に任官
天元3年(980年)
昇殿を許される
天元6年(983年)
1月27日 (旧暦):弾正少弼に転任
永観2年(984年)
1月10日 (旧暦):蔵人に補任
8月25日 (旧暦):従五位上に昇叙
8月27日 (旧暦):新帝(花山天皇)蔵人に補任
10月10日 (旧暦):正五位下に昇叙し、蔵人如元
10月30日 (旧暦):左少弁に任官。
蔵人如元か?

寛和2年(986年)
6月23日 (旧暦):蔵人頭に補任
7月5日 (旧暦):従四位下に昇叙し、蔵人頭如元
7月16日 (旧暦):右近衛権中将に任官。
蔵人頭如元

7月20日 (旧暦):参議に補任。
右近衛中将如元

8月13日 (旧暦):美作権守を兼任
10月15日 (旧暦):従三位に昇叙し、権中納言に転任
11月22日 (旧暦):正三位に昇叙し、権中納言如元
寛和3年(987年)
11月11日 (旧暦):従二位に昇叙し、権中納言如元
永延3年改元して永祚 (日本)元年(989年)
2月23日 (旧暦):権大納言に転任
3月4日 (旧暦):皇太后宮(藤原兼家の娘、藤原詮子)大夫を兼任
4月5日 (旧暦):正二位に昇叙し、権大納言・皇太后宮大夫如元
永祚2年改元して正暦元年(990年)
6月10日 (旧暦):右近衛大将を兼任
正暦2年(991年)
9月7日 (旧暦):内大臣に転任し、右近衛大将如元
正暦5年(994年)
8月28日 (旧暦):右大臣に転任
9月7日:右近衛大将如元
正暦6年改元して長徳元年(995年)
4月27日 (旧暦):関白宣下
4月28日 (旧暦):藤氏長者宣下
5月8日 (旧暦):薨去。
享年43

5月25日 (旧暦):贈正一位太政大臣

[English Translation]