藤原頼宗 (FUJIWARA no Yorimune)
藤原 頼宗(ふじわら の よりむね、正暦3年(992年)? - 康平8年2月3日 (旧暦)(1065年3月12日))は平安時代中期から後期にかけての公家。
父は藤原道長。
母は源高明の娘・源明子。
同母弟妹に藤原能信・藤原顕信・藤原長家・藤原寛子(小一条院女御)・藤原尊子(源師房室)らがおり、藤原頼通・藤原教通は異母兄弟に当たる。
幼名は厳。
道長の正室とされたのは頼宗らの母の明子ではなく源倫子(頼通・教通の母)であった。
このため頼宗は、同年の頼通に比べ昇進が遅れるが、1014年(長和3年)に権中納言、1021年(治安 (元号)元年)に権大納言に至る。
春宮大夫・右近衛大将などを兼任し、1047年(永承2年)内大臣、1060年(康平3年)に右大臣に昇任し、堀河右大臣と呼ばれた。
1065年(康平8年)1月に病の為出家し、同年2月3日に74歳で死去。
家集に「入道右大臣集」がある。
大弐三位・小式部内侍らの女流歌人を愛人にしていたという。
官位
寛弘元年(12歳)従五位上、侍従、右兵衛権佐
同3年 正五位下
同4年 右少将、従四位下、左少将、兼美作権介
同6年 右近衛権中将、従四位上
同7年 正四位下
同8年(20歳)従三位
同9年 正三位
長和2年 兼備中権守、従二位
同3年 権中納言
同5年 兼右衛門督、検非違使別当
寛仁元年 左衛門督、兼皇太后宮権大夫
同2年 太皇太后宮権大夫、正二位
治安元年 権大納言、兼春宮大夫
万寿5年 兼按察使
寛徳2年(53歳)兼右大将
永承2年 内大臣
天喜6年 従一位
康平3年(68歳)右大臣