藤原頼実 (FUJIWARA no Yorizane)

藤原 頼実(ふじわら の よりざね、久寿2年(1155年)-嘉禄元年(1225年))は平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。
左大臣藤原経宗の長男。
母は藤原清隆の女。
子に藤原頼平がいる。
大炊御門家の第三代目当主。

若年より後白河法皇の寵愛を得、右少将、権中納言、左兵衛督、侍従等を歴任した後、建久9年(1198年)、右大臣に叙任。
翌10年(1199年)には父もなし得なかった太政大臣への昇進を果たした。
このように官途の面では順調であったが、反面露骨な権力志向のため人望には乏しく、藤原兼実や藤原定家らは日記の中で彼を批判的に描いている。
後鳥羽天皇の乳母である卿局と強引に再婚したこともその政治的野心の顕れであり、その甲斐もあって娘の大炊御門麗子を土御門天皇の中宮(陰明門院)とすることに成功している。

承元3年(1209年)、太政大臣を辞任。
同年勃発した承久の乱に際しては、後鳥羽上皇の幕府打倒計画に反対したとされる。
建保4年(1216年)に出家(法名は顕性)。
嘉禄元年(1225年)に71歳で死去した。
大炊御門家は養子(実は弟)の大炊御門師経が継承している。

[English Translation]