藤原頼通 (FUJIWARA no Yorimichi)
藤原 頼通(ふじわら の よりみち、正暦3年(992年) - 承保元年2月2日 (旧暦)(1074年3月2日))は、平安時代の公卿・廷臣。
摂政・関白、太政大臣。
父は、藤原道長、母は源倫子(りんし)。
正室は源隆姫(後に源氏を賜って臣籍降下)、子に藤原通房・藤原師実。
幼名は田鶴。
通称宇治殿。
法名は蓮花覚、後に寂覚。
父道長から若くして後一条天皇の摂政を譲られて、その後見を受ける。
父の死後は朝政の第一人者として後朱雀天皇・後冷泉天皇の御代に渡り、関白を50年の長きに渡って務め、父道長と共に藤原氏全盛時代を築いた。
現代に残るその栄華の象徴が頼通が造営した平等院鳳凰堂である。
しかし、天皇の后にした娘が男子に恵まれなかった事や刀伊の入寇・平忠常の乱・前九年の役など戦乱が相次ぎ、朝廷内部での絶対的な権勢とは裏腹に内外においてはその政治的基盤を揺るがせる事態が相次ぎ、晩年には藤原氏と縁のない後三条天皇が即位して、摂関家は衰退へ向かい、やがて院政と武士の台頭の時代へと移ることになる。
いくつかのネット上には藤原頼“道”と記載してあるところがあるが“通”なので気をつけること。
生涯
父道長には左大臣源雅信の娘倫子と安和の変で失脚した左大臣源高明の娘源明子の二人の妻がいた。
倫子が正妻とみなされ、倫子の子の頼通、藤原教通は、明子の子の藤原頼宗、藤原能信らより昇進の面で優遇され、また娘も倫子の子が皇妃とされた。
道長は一条天皇のもとで内覧左大臣として朝政を主導し、権勢を振るった。
長保5年(1003年)頼通は12歳で元服し、正五位下に叙せられる。
寛弘3年(1006年)、15歳にして従三位に叙せられ公卿に達した。
累進して長和2年(1013年)に権大納言に任ぜられる。
村上天皇の第七皇子具平親王が娘の隆子女王を頼通の妻にと申し入れた、道長はこの高貴な姫との縁談を「男は妻がらなり」と言って喜んだ。
隆姫は美女であり、頼通と仲睦まじかったが、子が生まれなかった。
一条天皇の後を継いだ三条天皇と道長とは確執があり、天皇が失明寸前の眼病を患ったことから、道長はしきりと譲位を迫っていた。
東宮(皇太子)は道長の長女藤原彰子の生んだ後一条天皇であった。
天皇は道長を憎み譲位に応じようとしなかった。
『栄花物語』によると、天皇は道長を懐柔すべく頼通への皇女禔子内親王の降嫁を申し出た。
道長は同意したが、隆姫のみを愛する頼通はこの縁談を憂いた。
これに対して道長は「男子がなぜ一人の妻で止まるのか。
しかも子がないのだから、広く継嗣を求めよ」と叱咤して無理強いに縁組しようとさせたが、やがて頼通は重病となり、加持調伏の結果、具平親王の怨霊が出たため、この結婚は止み沙汰になったという。
同5年(1016年)、結局、三条天皇は道長の圧力に屈して、敦成親王に譲位した(後一条天皇)。
外祖父の道長が摂政となった。
翌同6年(1017年)頼通は内大臣に進むとともに、父に代わって摂政の宣下を受け藤原氏長者も譲られた。
頼通は僅か26歳であり、最年少の摂政だった。
道長は同年末に太政大臣に上るが、翌年には辞して、前太政大臣として若い頼通を後見することで後継体制を固めた。
寛仁3年(1019年)関白となり、治安 (元号)元年(1021年)に左大臣に転じた。
この間に父の道長は後一条天皇に三女の藤原威子を入れて中宮となし、また東宮後朱雀天皇には末子の藤原嬉子を入れ、嬉子は親仁親王(後の後冷泉天皇)を生み、将来への布石を打った。
寛仁3年(1019年)に道長は出家したが依然として実権を握り、頼通もその意向に従ってむしろ大事にはその判断を仰いでいる。
道長が公卿たちの前で関白の頼通を罵倒することもあったといい、治安 (元号)3年(1023年)と万寿2年(1025年)に不始末から父より一時勘当の処分を受けている。
頼通は有職故実に通じた当代の学識者だった小野宮流の藤原実資に師事して親交を結び、道長への批判者だった実資も頼通には好意を持っていた。
万寿4年(1027年)道長が死去した。
その半年後の長元元年(1028年)に関東で平忠常の乱が起こる。
その鎮圧には3年を要し、そのため主戦場の房総半島がひどく荒廃した。
この乱を鎮圧したのが源頼信であり、これを契機に清和源氏が関東に勢力を持ち、武士が本格的に表舞台に登場するようになる。
道長亡き後、頼通は自立して独自の権力確立に努め、同2年(1029年)には太政大臣藤原公季の薨去に伴い、一座となる。
同9年(1036年)後一条天皇が崩御し、同母弟の後朱雀天皇が即位した。
頼通は引き続き外叔父として関白を務める。
だが「一家三立后」を実現した道長と異なり、頼通は子女に恵まれず、やむなく正妻隆姫の縁で敦康親王の娘の藤原嫄子を養女として後朱雀天皇に入内させて中宮となした。
後朱雀天皇は道長の娘の嬉子を妻としたが、嬉子は東宮に立てられた親仁親王を生んですぐに死去しており、別に後三条天皇を生んだ禎子内親王(三条天皇の皇女)を皇后に立てていた。
頼通は嫄子による皇子誕生に期待したが、嫄子は皇女を生んだのみで死去してしまった。
弟の教通も対抗して娘の藤原生子を入内させるが皇子を生むことはなかった。
寛徳2年(1045年)、後朱雀天皇は危篤に陥り、次代の東宮に尊仁親王を望んだ。
尊仁親王は頼通はもちろん藤原氏自体と縁がなく、頼通は東宮を立てるのはまだ時期尚早であると反対した。
これに対し頼通の異母弟の権大納言能信(源明子の子)が天皇に対して懸命に尊仁親王の立太子を懇願し、遂に天皇は決意して遺命を残して崩御した。
親仁親王が即位し(後冷泉天皇)、尊仁親王が東宮に立てられた。
頼通は東宮には協力せず、永承5年(1050年)に一人娘の藤原寛子を入内させ皇后となし、皇子誕生に望みを繋いだがやはり皇子を生むことはなかった。
同6年(1051年)、陸奥国で前九年の役が勃発する。
地方の世情が不安になる中、道長を受け継ぎ長年関白を務めた頼通の権勢は表面的には衰えず、御所の傍に巨大な高陽院_(邸宅)を造営し、同7年3月28日_(旧暦)(1052年)には道長の別荘であった宇治殿を現代に残る壮麗な平等院鳳凰堂に改修した。
この頃荘園の増加によって国家財政が危機的状態にあり、その整理が必要とされていた。
それら荘園の主たる領主が頼通ら権門であった。
頼通は長久元年(1040年)、寛徳2年(1045年)、天喜3年(1055年)に荘園整理令に着手するが、結果的には権門擁護策に終わる(増加の抑制の成果については肯定的な見方もある)。
康平4年(1061年)、70歳になった頼通は太政大臣宣下を受け位人臣を極めた。
翌年には父の例に倣い太政大臣を1年足らずで辞している。
治暦3年(1067年)には関白を辞して、准三宮を宣下された。
後任の関白には同母弟の教通が任じられた。
同4年(1068年)後冷泉天皇が崩御し、尊仁親王が即位した(後三条天皇)。
新帝は藤原氏とは直接の血縁がなく、35歳と壮年で25年の長い東宮時代を耐えた天皇は意欲的に国家財政の改革に着手し、有名な延久の荘園整理令を出した。
藤原氏ら権門の荘園も審査の対象たるを逃れなかった。
『愚管抄』は記録所が頼通にも文書提出を求めたとき、「そんなものはないので全て没収しても構わない」と答え、頼通の荘園のみ文書の提出を免除されたという話を伝えている。
延久4年(1072年)4月に出家して宇治市に閉居した。
同年12月、後三条天皇は在位4年で貞仁親王に譲位した(白河天皇)。
上皇となり新帝を後見して院政を意図していたとも云われるが、僅か半年ほどで翌年5月に崩御した。
後三条天皇とは東宮時代から対立した頼通だが、賢主の早世を嘆息したという。
若い頃は長者風の温和な性格だった頼通だが、長年権力を持ち続けると豪華な奢侈を好み権勢に固執するようになったという。
『古事談』によると頼通は実子師実に摂関を伝えることを強く望み、関白となった弟の教通に約束させたが、教通は一向に実行しようとしなかったので「自分は師実が職(摂関)にあることを目にしなければ、冥することができない」と言ったが、これに対して教通は「私の勝手で、できることではない」と答え、頼通はひどく恨んだという。
延久6年(1074年)、頼通は83歳の長寿をもって死去した。
当時の例に漏れず頼通も日記を書いていた。
しかし、弟の教通・頼宗の日記と同じく散逸してしまった。
『院号定部類記』、『改元部類』、『園太暦』に「宇治殿御記」「槐記」として逸文が収められている。
官歴
※日付=旧暦
2月28日、侍従に任官。
月日不詳、右近衛少将に転任。
1月24日、近江介を兼任。
9月2日、正三位に昇叙し、右近衛少将如元。
6月13日、春宮権大夫如元。
3月6日、左近衛大将如元。
3月16日、摂政宣下。
内大臣・左近衛大将如元。
3月22日、左近衛大将を辞任。
改元して治安元年(1021年)
7月25日、左大臣に転任し、関白如元。
8月10日、太政大臣(藤原公季)の下に列する旨の宣旨あり。