藤原顕季 (FUJIWARA no Akisue)

藤原顕季(ふじわらのあきすえ、天喜3年(1055年) - 保安 (元号)4年9月6日 (旧暦)(1123年9月27日))は、平安時代後期の貴族。
美濃守藤原隆経の息子。
正三位修理大夫。
六条修理大夫と号した。
歌道家の流派のひとつ六条藤家の祖。

母親が白河天皇の乳母であった関係もあり、白河天皇の信任が厚く院の近臣として官界で活躍した。

官職

讃岐守に任官されたのを始めとして、長きにわたり受領として地方官を歴任した。

延久元年(1069年)左兵衛尉
延久4年(1072年)蔵人
延久5年(1073年)左近衛将監、従五位下
延久6年(1074年)左兵衛権佐
承保2年(1075年)讃岐守
承保3年(1076年)従五位上、次いで正五位下、讃岐守
承暦2年(1078年)従四位下、丹波守
承暦4年(1080年)従四位上、丹波守
永保3年(1083年)正四位下、丹波守
応徳元年(1084年)尾張守
寛治4年(1090年)伊予守
寛治8年(1094年)播磨守、修理大夫
康和3年(1101年)美作守、修理大夫
康和4年(1102年)正四位上、院司
康和5年(1103年)春宮亮、修理大夫、美作守、院別当
康和6年(1104年)従三位、修理大夫
嘉承3年(1108年)正三位、修理大夫
天仁2年(1109年)太宰大弐、修理大夫
永久4年(1116年)修理大夫
保安3年(1122年)修理大夫を辞す

歌人として

承暦2年(1078年)の『承暦二年内裏歌合』、寛治7年(1093年)の『堀河百首』、『郁芳門院根合』、『堀河院艶書合』、『鳥羽殿北面歌合』などに出詠して名声を博した。

藤原忠通主催の歌合ほかで判者をつとめるなど、時代を代表する歌人であった。
自身も歌合を主催するなど精力的に活動した。

「人麿影供(えいぐ)」
元永元年(1118年)には、柿本人麻呂の図像を祭り歌を献じたが、これは史上最初の「人麿影供(えいぐ)」の記録とされる。

家集『六条修理大夫集』がある。

金葉和歌集、詞花和歌集、千載和歌集、新古今和歌集、新勅撰和歌集、新続古今和歌集にその歌が収録されている。

代表的な歌

み山いでてまだ里なれぬ時鳥うはの空なる音をやなくらん(金葉和歌集)
夏衣すそのの草葉ふく風におもひもあへず鹿やなくらん(金葉和歌集)
わが恋は烏羽にかく言の葉のうつさぬほどはしる人もなし(金葉和歌集)
わぎもこが声たちききし唐衣その夜の露に袖はぬれにき(金葉和歌集)
種まきしわが撫子の花ざかりいく朝露のおきて見つらん(詞花和歌集)
五月闇さ山の峰にともす火は雲のたえまの星かとぞみる(千載和歌集)
夜とともに行方もなき心かな恋は道なきものにぞありける(千載和歌集)
霞しく木の芽はるさめふるごとに花の袂はほころびにけり(新勅撰和歌集)

[English Translation]