蜂屋頼隆 (HACHIYA Yoritaka)
蜂屋 頼隆(はちや よりたか、1534年(天文 (元号)3年)- 1589年11月3日(天正17年9月25日 (旧暦)))は、戦国時代 (日本)の武将。
官位は兵庫頭、出羽守。
侍従。
正室は丹羽長秀の妹。
はじめ土岐氏、次いで斎藤氏に仕えた。
織田信長が美濃国攻めを開始した頃、信長の家臣となり、黒母衣衆に名を連ね、信長の上洛における諸合戦や一向一揆討伐戦などにおいて活躍。
信長の上洛後は、京洛の政務にも関わっており、信長の上洛前後には部隊長クラスの扱いを受け、一軍を率いていたことがわかる。
また、信長の命により、謀反を起こした(有岡城の戦い)荒木村重の一族の処刑も行なっている。
その後も諸戦に参戦し、軍功を重ねたが、主だった武将が各方面侵攻の国主として任命された頃も、遊撃軍扱いであり、他の主力家臣よりは一歩出世が遅れた形となっていた。
だが、天正8年(1580年)、佐久間信盛親子の追放後に、丹羽長秀・津田信澄らと共に、織田信孝の配下として付けられ、和泉国一国の支配権をほぼ任されている。
1582年の本能寺の変によって信長が死去した後、津田信澄は織田信孝・丹羽長秀に殺害されるが、これには関与せず静観。
山崎の合戦には、信孝に従い参戦しているが、光秀が死に柴田勝家・織田信孝が秀吉と敵対すると、豊臣秀吉に属し、織田信孝の岐阜城攻めに加わっている。
戦後、越前国敦賀に所領4万石を与えられる。
羽柴の姓を授けられたことから、羽柴敦賀侍従と呼ばれた。
その後も佐々成政攻めや、九州征伐に秀吉配下として従軍したが、1589年、56歳で死去。
丹羽長秀の四男、直政(1580年生まれ)が養子に居たがその頃にはおそらく亡くなっていた為に嗣子無く、蜂屋氏は断絶した。