蜷川虎三 (NINAGAWA Torazo)
蜷川 虎三(にながわ とらぞう、1897年2月24日 - 1981年2月27日)は、経済学者・統計学者。
元京都府知事(1950年 - 1978年)。
経歴
学生~京都大学教官時代
東京都深川 (江東区)生まれ。
旧制府立第三中学(現東京都立両国高等学校)、農商務省 (日本)水産講習所(現東京海洋大学)卒業後、京都帝国大学経済学部に入学。
1927年、同助教授となる。
ドイツに留学後、『統計利用に於ける基本問題』で経済学博士号を取得するも教授に昇格するのはずっと遅く1942年だった。
1945年に経済学部長となるも翌年、戦争責任を自認し辞職する。
政治家への転身、京都府知事へ
その後、1948年に初代の中小企業庁長官となったものの、吉田茂首相と中小企業政策をめぐって対立し1950年に辞任。
同年、日本社会党公認・全京都民主戦線統一会議(民統)推薦で京都府知事選挙に立候補し当選、以後7期28年間知事を務める。
なお、同年には第2回参議院議員通常選挙と京都市長選も行われ、それぞれ民統が推した大山郁夫・高山義三が当選する。
しかし高山市長はその後保守系に軸足を置き始め、高山が市長を退き国立京都国際会館館長になった後でも確執が続いた。
府政前半
府政に於いては、「憲法を暮らしの中に生かそう」の垂れ幕を京都府庁に掲げた。
そして、憲法記念日には日本国憲法前文を記した屏風を背に訓示するなど、地方自治の現場でも一貫して護憲の立場を実践し続けた。
それは、施策にもあらわれている。
たとえば教育問題。
「十五の春は泣かせない」というスローガンの下、高校の小学校区・総合選抜入試をうちだした。
これにより、受験戦争に苦しむ子供たちを救おうとした。
また、学校教職員の勤務評定の実施も「政府権力からの府教育への干渉」だとして断固拒否した。
福祉行政に関しても全国で始めて「65歳以上のお年寄り医療費助成制度」をつくるなど手厚い予算をつけた。
公害対策でもかなり厳しい基準を設け、「高速道路は環境に悪い。
おまけに戦争のときに使われる可能性がある」として殆ど建設を許さなかった。
加えて、現業公務員を大量に採用し、組合を保護した。
これらは「革新」らしさの典型であろう。
その一方、産業振興策はかなり「保守的」であった。
まず、京都府独自で産業振興計画を策定。
その中で「政・官・学・財」が一体となってバックアップし企業が京都に根付くような体制(府の融資条件の緩和や工業団地設立など)をつくっていく。
地場産業の保護・活性化にも力を注いだ。
また、「高速道路は駄目だが、生活や産業のための道路はどんどん建設する」との方針がだされ、地元建設業者に工事の仕事が割り振られた。
農業・漁業などに関しては、国が推し進める稲作減反に反対の姿勢を取り、独自の「京都食管」と呼ばれる価格保障制度や育成策をだす。
その事で第一次産業の人たちが安心して京都に住めるような環境もつくった。
観光客が京都の観光でお金を落としてくれるような施策もうち、京都ブランドを全国に売り出していく。
このように、政策運営は保守・革新折衷だったといえる。
この運営方針が当たった事と高度成長が重なった事で、税金が豊かに集まり、革新自治体の割には財政不振に苦しむ事がほとんどなかった(1956年に山城大水害の影響で一度財政再建団体に転落したが、1962年に自力で立ち直っている。
その後は黒字の年が多かった。
)
このため、しだいに医師会や農業団体など保守・中道系の一部の支持も獲得する。
そのため選挙では圧倒的な強さを誇った。
府政後半
しかし後期になると状況が変わる。
このころ、蜷川に対し古巣の社会党が露骨な個人的要求を突きつけるようになっていた。
蜷川はそれを嫌い、もうひとつの与党「共産党」に力を与えるようになった。
それに伴い、共産党は京都府全体で急速に勢力を伸ばすようになった。
逆に社会党は勢力がダウンしていき、彼らは蜷川や共産党を目の敵にし始める。
同時に府政のバランスが悪くなりイデオロギー色が急激に強くなっていった。
加えて自慢の府政でも問題も発生する。
例えば、交通・生活行政。
蜷川府政の下、山間部や日本海側の開発は急激に進んだのだが、都心部では住民の開発反対運動の意向を蜷川が気にしたため(蜷川の支持母体は都市部の住民団体が多かった)、あまり手をつける事ができなかった。
この影響で、都市部の上下水道等のインフラストラクチャー整備や道路の舗装は大幅に遅れ、「道路や下水道の様子を見ると京都に入ったのがわかる。」と揶揄されるほどであった。
また、教育問題や福祉などでも「蜷川府政の教育政策は生徒を甘やかし、駄目にするだけだ(京都大学への府立高校からの進学率低下などが材料にされた)」「学校内外で教職員組合の横暴が過ぎる」「税金によるばら撒き福祉だ」という批判が頻繁に出されるようになった。
府で大量に雇った公務員の質の問題も取りざたされ、地元マスコミ(京都新聞など)による追及が連日連夜繰り返された。
それらの逆風がふいても、蜷川知事は高い実務能力と、膨大な公約実現で積み重ねてきた信頼を武器に、5期目・6期目の選挙でも圧勝する。
蜷川はこの勢いに乗り、一気に行財政改革を進め、府の機構を効率化した。
また、今までの企業誘致策や観光施策をより進めたことで、この時期、他自治体が非常に苦しんだオイルショックによる税収減も難なく乗り越える事ができた。
知事引退~死去
しかし、7期目を目指した1974年の知事選では自民・公明党・民社党に加えて社会党の一部までが組んだ対立候補(前社会党参議院議員だった大橋和孝)に大苦戦。
わずか4千票の僅差でようやく当選したものの、この苦戦や自らの年齢(当時78歳)に限界を感じた蜷川は、1978年に知事を引退。
蜷川にとって最後の京都府本会議で、府議会議員であった野中広務は『横綱に子供が飛びかかる光景』、『議場が蜷川教授の教室』と例えた演説を行った。
その後の1978年京都知事選で、後継の杉村敏正候補が自民推薦の林田悠紀夫に敗れ、28年の革新府政は終わりをむかえた。
その後は、のんびりと余生を過ごし日本共産党の応援などをしていたが、1981年3月に81歳で死去した。
評価
あまりにあくの強い人物で、かつ府政も強烈だったため、いまだに評価が二分する。
自民党などからは「独裁・暗黒時代」「京都を極限まで遅らせた張本人」という批判がある。
確かに前述のような教育水準やインフラ整備、公務員の質などが(特に後期)低下し、その後の尻拭いに長期の時間を要したことは事実である。
ただし、自民党などもその蜷川知事の出した予算に任期中ずっと賛成していたり、議会内では蜷川知事を褒め称える言動を数々していた事実や、保守支持層の大部分も「高速道路がなくても他と違う京都が良い」「赤くても白くても日々の仕事と生活を豊かにしてくれるトップであれば良い」という理由で蜷川支持にまわっていたこともある。
自民党の姿勢や政策の打ち出し方にも問題がなかったとはいえない。
共産党は蜷川府政を当然のことながら好意的にとらえている。
一方でその共産支持層の中にも「蜷川さんの教育政策は流石にやり過ぎで、少し迷惑だった。」との声があることも事実である。
また、その後日本共産党は一度も革新府政を奪回できていない。
原因はいくつかあるが、共産党は未だに彼の「幻影」から抜け出せず、新しいビジョンを提示できていないことが大きい。
良くも悪くも京都府の現在に多大な影響を残した知事であった。
ある意味、蜷川時代を発展させどう乗り越えていくかが今後の京都の課題であろう。
人物
京都府民からは「(蜷川の)トラさん」という愛称で親しまれた。
前述の野中広務、京都財界のリーダー格であった京都商工会議所会頭塚本幸一(株式会社ワコール代表取締役)等、政治的には対立しながらも魅力的な人物であったと著書等で記している。
著書
回想録として『洛陽に吼ゆ』(朝日新聞社刊) ISBN 402254631X がある。