蜷川親長 (NINAGAWA Chikanaga)
蜷川 親長(にながわ ちかなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
略歴
蜷川氏は代々足利将軍家に仕え、室町幕府政所代を務めた。
父は蜷川親世。
妻は斎藤利賢の女、妻の母は蜷川親順の女であり妻は従姉妹にあたる。
故実家。
通称新右衛門。
道標と号す。
生涯
天文2年(1533年)、蜷川親世の長男として生まれる。
13代将軍足利義輝に仕え、丹波国船井郡桐野河内を領して蟠根寺城に父の親世とともに拠ったが、永禄8年(1565年)義輝が松永久秀に討ち取られ、親長は所領を失い没落。
のち土佐国に下向して婚姻の好みで長宗我部元親に仕えた(親長と元親の妻は父親は違うが同母の姉妹)。
有職故実に通じており京の礼法に詳しく、連歌の達人でもあり厚遇を得た。
元親百ヶ条を製作した人物と言われる。
京都等持寺の僧侶策彦周良に元親夫妻の雅号(雪渓、水心理因)を求める使者となっている。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦後の長宗我部家改易の際に残った財務処理に手腕を発揮し、さらに一揆の鎮圧にも功績があったため、慶長7年(1602年)に徳川家康に山城国綴喜郡に500石を給されて旗本として取り立てられ、家康の御伽衆となった。
慶長15年(1610年)5月8日京都にて没す。
享年78。
法名如水軒峯室道標居士。
京都真如堂に葬られている。