行徳玉江 (GYOTOKU Gyokuko)
行徳玉江(ぎょうとく ぎょくこう、 文政11年5月(1828年) - 明治34年(1901年)6月22日)は、幕末から明治期のの日本の漢詩人・書家・文人画・篆刻家である。
名は直貫(直は譲り字)または貫、字を仁卿、号 (称号)は玉江の他に檜園・九柳十橋逸士。
通称元慎。
浪華の人。
略伝
行徳家の家祖は平氏桓武平氏の流れを汲む熊谷直英とされる。
筑後国にて眼科医を開いた。
代々眼科医となる。
4代目の元亮が大坂に出て開業した。
5代目元恭は儒医として名高く浪華に定住した。
玉江はその子で行徳家6代目として生まれ英才教育を受けた。
10歳にて篠崎小竹に入門し、経学と漢詩を学ぶ。
その後父は浪華に移り住んでいた広瀬旭荘の詩才を見込み、13歳の玉江を入門させている。
同門の藤井藍田・柴秋邨・長三洲らと交友した。
医術は京都で今枝夢梅に学んでいる。
14歳頃に鼎金城に就いて南画の指導を受ける。
18歳のときには『浪華画家名流』にその名が掲載され画家として認められている。
京都にて貫名海屋からも画の教えを受けている。
篆刻は呉北渚に就いて学び、画名以上に名を馳せた。
叔父に「医業か画業いずれかに専心せよ」と戒めを受けあっさり医を諦める。
九州各地を遊歴し長崎では祖門鉄翁に画法を受けた。
その後も旅を続け越前国・伊予国・伊勢国などに赴いている。
新婚間も無い安政元年には出雲国に遊び、3年間も滞在している。
南画の将来を憂い明治18年に大坂に画学校の創設を企て府知事に提案。
玉江館として設立される。
享年74。
戒名は、南宗院画禅直逸居士。
墓碑銘は藤沢南岳が撰した。
当初、福島区妙徳寺に葬られたが後に枚岡市額田に移葬された。
印譜に『風人余藝』、詩集に『停雲吟草』、画譜『玉江画譜』がある。