西園寺公宣 (SAIONJI Kinnobu)

西園寺 公宣(さいおんじ きんのぶ、寛永2年(1625年) - 寛文10年8月15日 (旧暦)(1670年9月28日))は、江戸時代前期の公家。
別名は西園寺随宜とも言う。
霊元天皇(111代)の代に仕えたが、母の死去後すぐに宮仕えを辞去している。
父は左大臣西園寺実晴。
母は実晴室・細川忠隆の娘の徳。

年上の甥である中納言西園寺実尚が若くして急死したため、その後を受けて西園寺家を相続した。
従五位侍従に就任したが、寛文5年(1665年)に急に職を辞して隠居した。
そして、叔父にあたる細川内膳家長岡忠春を頼って肥後国入道水村(現在の熊本県菊陽町)に下向、そこで暮らしていたが病を得て寛文10年に45歳で卒去した。
西園寺家は兄の西園寺公遂が継いだ。

実は、西園寺公宣の肥後滞在中に、娘・安姫が生まれている。
公宣の死後、京都から迎えが来て安姫は西園寺家で育てられ、後に鷹司家から婿(西園寺実輔)をとって西園寺家を継ぐことになる。

熊本県の古閑原西端から北に農道を登った芳ケ平に、そこで死去した西園寺随宜を祀る神社と墓が残っている。

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