西園寺公晃 (SAIONJI Kinaki)
西園寺 公晃(さいおんじ きんあき、元禄15年7月11日 (旧暦)(1702年8月4日) - 明和7年8月21日 (旧暦)(1770年10月9日))は、江戸時代中期の公卿。
主に中御門天皇(114代)・桜町天皇(115代)・桃園天皇(116代)の三帝にわたって奉仕し、官位は従一位内大臣まで昇っている。
父は左大臣西園寺致季。
母は家女房。
養父に鷹司兼熙(大伯父にあたる)がいる。
妻は今出川伊季の娘。
子に右大臣西園寺賞季、右大臣徳大寺実祖・内大臣今出川実種がいる。
享保5年(1720年)に叙爵。
以降清華家当主として速いスピードで昇進し、享保10年(1725年)には従三位となり公卿に列する。
その後も踏歌節会外弁や中納言を経て、享保17年(1732年)から元文3年(1738年)、寛延3年(1750年)から宝暦3年(1753年)までの二度にかけて大納言を務めた。
宝暦3年(1753年)に大歌所別当に補された。
宝暦5年(1755年)に近衛府に転じ、さらに内大臣となるも翌年に辞職した。
宝暦10年(1760年)に従一位が授与される。