西園寺公衡 (SAIONJI Kinhira)

西園寺 公衡(さいおんじ きんひら、文永元年(1264年) - 正和4年9月25日 (旧暦)(1315年10月23日))は、鎌倉時代後期の公卿。
西園寺実兼の長男、母は中院通成の娘の中院顕子。
法名は静勝。
子に西園寺実衡・広義門院ら。

1283年(弘安6年)に参議、権大納言、内大臣等を経て、1309年(延慶 (日本)2年)に左大臣を務める。
1299年(正安元年)のとき右大臣に就き、更に父実兼の関東申次を継ぎ、大覚寺統・持明院統問題に際して権力を振りかざす。
だが、後宇多上皇に内緒で常盤井宮恒明親王擁立に動いたことで大覚寺統から忌避されるようになると権力に翳りも見られた。
その後、1311年(応長元年)出家。
1315年(正和4年)死去。

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