西園寺賞季 (SAIONJI Yoshisue)

西園寺賞季(さいおんじ よしすえ、寛保3年8月12日 (旧暦)(1743年9月29日) - 寛政11年12月22日 (旧暦)(1800年1月16日))は、江戸時代中期の公卿。
桃園天皇(116代)・後桜町天皇(117代)・後桃園天皇(118代)・光格天皇(119代)の四帝にわたり仕え、官位は従一位右大臣まで昇る。
父に内大臣西園寺公晃。
母は内大臣今出川伊季の娘。
妻は広幡長忠の娘(近衛内前の猶子)。
実子に従五位西園寺公兼、近衛府西園寺公氏、中納言野宮定業の室、長州藩主毛利匡芳の室がいる。
養子縁組に近衛府西園寺実韶(一条輝良の子)、権中納言西園寺寛季(二条治孝の子)がいる。

寛延元年(1748年)に叙爵。
以降清華家当主として速いスピードで累進して、宝暦6年(1756年)に従三位に達して公卿に列した。
その後、中納言・大納言を経て、明和元年(1764年)には大歌所別当や踏歌節会外弁に補された。
明和5年(1768年)には皇太子英仁親王(のちの後桃園天皇)の春宮坊となるも、明和7年(1770年)の親王の践祚とともに辞す。
安永4年(1775年)内大臣に任じられた。
寛政2年(1790年)従一位に叙される。
寛政8年(1796年)に右大臣に任じられるも辞した。

男子には実子の公兼、公氏と養子の実韶の三人がいたが、相次いで先立たれている。
西園寺家の相続人がいなくなったために、左大臣二条治孝の三男の寛季を養子に迎えて西園寺家を相続させた。

[English Translation]