西笑承兌 (Saisho Jotai)
西笑承兌(さいしょうじょうたい、天文 (元号)17年(1548年) - 慶長12年12月27日 (旧暦)(1608年2月13日))は豊臣政権~江戸時代に活躍した臨済宗の僧。
相国寺承兌とも呼ばれる。
伏見(京都市伏見区)の人。
豊臣秀吉や徳川家康の知恵袋の一人として知られ、特に諸法度や外交文書の起草、学問奨励策や寺社行政の立案や、法要などの仏事の運営に重要な役割を果たした。
幼い時に出家し、はじめ一山派の仁如集堯(1483年 - 1574年)らに参禅して学んでいたが、天正12年(1584年)に荒廃していた相国寺に住するようになり、中華承舜の嗣法となって夢窓派に転じ、相国寺を再建、翌年には鹿苑僧録となった。
その後南禅寺に入ったが、後、再度、鹿苑僧録となり、豊臣秀吉の政治顧問となる。
豊臣秀次や豊臣秀頼とも親交を持った。
また、伏見版『周易』(1605年)の出版を行なったため、近世易学の隆盛の祖ともされている。