谷三十郎 (TANI Sanjuro)

谷 三十郎(たに さんじゅうろう、? - 慶応2年4月1日 (旧暦)(1866年5月15日))は新選組七番隊組長で、槍術師範であったともされる。
備中松山藩生まれ。
諱は供国。

谷三兄弟

幼少の頃、父・谷三治郎より剣術を学んでいた。
槍も使ったという話があるが、これは弟・谷万太郎のことと混同された可能性もある。
備中松山藩主板倉勝静に仕えていたが、安政3年(1856年)頃、不祥事により谷家は断絶(これは三十郎本人でなく弟の谷万太郎の不祥事とも言われ、定かでない)。

新選組

新選組への入隊は池田屋事件以前で、池田屋事件の際は近藤隊に属している。

元治2年(慶応元年)1月、大阪取締りの際、弟・万太郎ら四人で尊攘過激派による大阪焼き討ち計画を未然に防いでいる。
(ぜんざい屋事件)その後同じ慶応元年、7番隊組長に抜擢される。
(この時槍術指導は弟・万太郎の役職とされる)


谷三十郎の槍は「千石もの」と言われたと伝わるが、逆に実戦ではほとんど活躍していないただの道場槍であったとも見られている。
(あるいは弟・谷万太郎と混同されたとも考えられている。)
三十郎が隊士の切腹の際の介錯を失敗したと言う話も伝わるが、その隊士が切腹するのは記録では三十郎の死後の事であるため、信憑性は乏しい。

死因

慶応2年4月1日、三十郎の死体が東山の祇園社(現在の八坂神社)石段下で発見された。

死因は「頓死」とだけあり、明らかではない。

暗殺説、病死説の二つの説もある。

[English Translation]