豊臣秀次 (TOYOTOMI Hidetsugu)
豊臣 秀次(とよとみ の ひでつぐ、とよとみ ひでつぐ)/羽柴 秀次(はしば ひでつぐ)は、戦国時代 (日本)(室町時代末期)から天正時代の武将・大名・関白である。
豊臣秀吉の姉・日秀の子で、秀吉の養子となる。
通称は孫七郎(まごしちろう)。
幼名は治兵衛(じへえ)。
はじめ、戦国大名・三好氏の一族・三好康長に養子入りして三好信吉(みよし のぶよし)と名乗っていたが、後に羽柴 秀次と改名する。
なお「豊臣秀次」の読み方については、豊臣氏を参照のこと。
正室は池田恒興の娘、継室は右大臣・菊亭晴季の娘。
側室は、最上義光の娘・駒姫、淡輪徹斎隆重の娘・小督局、大島新左衛門の娘・お国など、ほか多数いる。
前半生
永禄11年(1568年)、豊臣秀吉の姉・とも(瑞竜院日秀)と三好吉房(当時は木下弥助)の長男として生まれる。
織田信長の浅井氏攻めに際し、宮部継潤に養子として送り込まれた(浅井氏滅亡後に返還)。
その後、信長が開始した四国征伐において、秀吉が四国に対する影響力を強めるため、当時阿波国で勢力を誇っていた三好康長に養子として送り込まれ、三好信吉と名乗る。
天正10年(1582年)6月の信長の死後、秀吉が信長の後継者としての地位を確立する過程において、秀吉の数少ない縁者として重用された。
天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに参戦して武功を挙げた。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも参加し、このとき「中入り」のため三河国別働奇襲隊の総指揮を執ったが、逆に徳川家康軍の奇襲を受けて惨敗し、舅である池田恒興や森長可らを失い、命からがら敗走する。
このため、秀吉から激しく叱責された。
この時期、羽柴秀次と名乗る。
天正13年(1585年)の紀伊国紀州征伐、四国征伐では軍功を挙げた。
このため、近江国八幡山城に43万石を与えられた(うち、23万石は御年寄り衆分)。
領内の統治でも善政を布いたと言われ、近江八幡市には「水争い裁きの像」などが残り逸話が語り継がれている。
これは田中吉政など家臣の功績が大きいとも言われているが、悪政を敷いた代官を自ら成敗したり名代を任せた父の三好吉房について「頼りない」と評価するなど主体性を発揮した面も伝わっている。
吉政らの補佐を受けつつ、徐々に彼らを使いこなすに至ったというのが実像であろう。
天正18年(1590年)の小田原の役にも参加し、戦後、移封を拒否して改易された織田信雄の旧領である尾張国、伊勢国北部5郡などに100万石の大領を与えられた。
葛西・大崎一揆においても鎮圧で武功を挙げた。
最期
天正19年(1591年)8月に秀吉の嫡男・豊臣鶴松が死去した。
そのため、11月に秀吉の養子となり、12月には秀吉の後継者として、豊臣姓を贈られ、関白職を譲られた。
そして聚楽第に居住して政務を執ったが、秀吉は全権を譲ったわけではなく、二元政治となった。
その後、文禄・慶長の役に専念する秀吉の代わりに内政を司ることが多かった。
しかし文禄2年(1593年)に秀吉に実子・豊臣秀頼が生まれると、秀吉から次第に疎まれるようになる。
秀頼と秀次の娘を婚約させるなど互いに譲歩も試みられたが、けっきょく文禄4年(1595年)7月8日、秀吉の命令で高野山に追放され、出家した(これ以降、出家した関白=禅閤となり、豊臣の姓から豊禅閤〈ほうぜんこう〉と呼ばれた)。
同年7月15日に切腹を命じられ青巌寺・柳の間にて死亡。
享年28。
死後、秀次の一族・妻妾・息子・娘・家臣の多くが粛清され、秀次の首は秀吉によって京都の三条河原に曝された。
秀吉により、新たに秀頼が後継者へ指名され、秀吉の死後、秀頼が家督を継いだ。
秀次事件
秀次であったが、文禄元年(1593年)、秀吉に新たな子豊臣秀頼が生まれると関係が決定的に悪化した。
文禄4年(1595年)に秀吉によって謀反の疑いをかけられることになる。
同年7月3日、聚楽第に居た秀次のもとへ石田三成ら五奉行のうち4名が訪れ、秀次に対し高野山へ行くように促された。
同月8日に秀次は謀反についての釈明の為に、秀吉の居る伏見城へ赴くが、対面することが出来ず、同日高野山へ入った。
それから1週間後の15日に秀次のもとへ福島正則らが訪れ、秀次に対し秀吉から切腹の命令が下ったことを伝えられ、同日、秀次及び秀次の小姓らを含めた嫌疑をかけられた人々が切腹することになった。
秀次は雀部重政の介錯により切腹し、そして重政と東福寺の僧侶玄隆西堂も切腹した。
秀次及び同日切腹した関係者らの遺体は金剛峰寺に葬られ、秀次の首は三条河原へ送られた。
そして、同年8月2日 (旧暦)(9月5日)には三条河原において、秀次の家族及び女人らも処刑されることになり、秀次の首が据えられた塚の前で、遺児(4男1女)及び正室・側室・侍女ら併せて39名が処刑された。
約5時間かけて行われた秀次の家族らの処刑後、その遺体は一箇所に埋葬され、その埋葬地には秀次の首を収めた石櫃が置かれた。
その後、秀次ら一族の埋葬地は慶長16年(1611年)、豪商の角倉了以によって再建されるまで、誰にも顧みられることなく放置されていた(畜生塚)。
なお、秀次に関連した大名は監禁させられ聚楽第も破却された。
ただし、秀次の妻子が皆殺しにされたわけではない。
淡輪徹斎隆重の娘・小督の局との娘のお菊は女児であり尚且つ生後一ヶ月の幼さであったためか助命され、お菊の祖父の弟の子の後藤興義に預けられた。
また、のちの真田信繁の側室・隆精院、梅小路家に嫁いだ娘の二人も難を逃れた。
他にも正室である池田恒興の娘・若御前も助命され、兄・池田輝政のもとに送り返されている。
この秀次ら一族処刑に関して、その経緯を記した絵巻「瑞泉寺縁起」が京都の瑞泉寺 (京都市)に残されている。
粛清の理由
秀次粛清の理由において、次のような説が上げられている。
実子である秀頼の後継を確実なものとし、秀次の子孫を根絶やしにして直系継承を守るため
秀頼誕生後から酒色に溺れ、女狂いになったなどの奇行説(→「殺生関白」)
秀頼の生母・淀殿と「近江派」の吏僚・石田三成らによる陰謀説。
(ただし、武功夜話によると、三成は秀次の無罪を主張していたという。)
切腹
木村重茲(助命後自裁)
木村志摩守(賜死)
前野長康(助命後自裁)
前野景定(賜死)
羽田正親(賜死)
服部一忠(賜死)
渡瀬繁詮(賜死)
明石則実(賜死)
一柳可遊(賜死)
粟野秀用(賜死)
白江成定(賜死)
熊谷直澄(熊谷直之)(賜死)
その他
三好吉房(改易・流罪)
六角義郷(改易)
木下吉隆(改易・流罪)
里村紹巴(蟄居)
浅野幸長(流罪→のちに復帰)
前野忠康(浪人)
滝川雄利(除封)
荒木元清(追放)
菊亭晴季(流罪)
土御門有脩(流罪)
難を逃れた主な人物
藤堂高虎
中村一氏
堀尾吉晴
山内一豊
伊達政宗
最上義光
田中吉政
細川忠興
最上、細川、伊達らは徳川家康の取り成しで事なきを得た。
「殺生関白」
事件直前の秀次は嗜好殺人などの非道行為(盲人を辻斬りにした)を繰り返したとも言われ、「殺生関白」(「摂政関白」の韻に掛けた創作)の異名をとったという話は有名であるが、実情は不明であり疑わしい点も多い。
秀次事件の影響
秀次は秀吉晩年の豊臣家の中では唯一とも言ってもよい成人した親族であったため、彼が存命していたなら、後の家康の覇権奪取に抵抗した可能性もあった。
秀次とその子をほぼ殺し尽くしたことは、数少ない豊臣家の親族をさらに弱める結果となった。
また、秀次事件に関係し秀吉の不興を買った大名は総じて関ヶ原の戦いで徳川方である東軍に属することになる。
笠谷和比古は、朝鮮出兵をめぐる吏僚派と武断派の対立などとともに、秀次事件が豊臣家及び豊臣家臣団の亀裂を決定的にした豊臣政権の政治的矛盾のひとつであり、関ヶ原の戦いの一因と指摘している。
人物
秀次は通説として凡庸・無能な武将として評価されることが多いが、秀次の失敗は小牧・長久手の戦いの敗戦の一度だけであり、その後の紀伊・四国征伐、小田原征伐での山中城攻め、奥州仕置などでは武功を発揮した。
政務においても山内一豊、堀尾吉晴らの補佐もあって無難にこなしていることを考慮すると、そこそこの力量はあったものと思われる。
下記にも書かれてあるとおり文武両道の人物だった。
秀次事件のとき、秀吉譜代の家臣である前野長康、さらには木村重茲、渡瀬繁詮、先に陰謀説で名前の挙がっている石田三成など多くの人物たちが秀次の無罪を主張して弁護していることから、秀次は諸大名から人望があったものと思われる。
秀次はキリシタンではないにも関わらず、宣教師からは穏やかで思慮深い性質であると賞賛の言葉をもらっている(ルイス・フロイス「日本史」など)。
この点からも巷説の「殺生関白」は実像だったか疑問がある。
キリスト教についても理解を示し、キリシタンであったのではないかとする研究者もいる。
秀次は古筆を愛し、多くの公家とも交流を持つ当代一流の教養人でもあった。
学問の上達ぶりを賞賛する公家の手記も現存する。
一方、在野の学者である藤原惺窩などは秀次を低く評価し、「学問が穢れる」と相手にしなかったと言われている。
ただし藤原惺窩の父・冷泉為純は秀吉によって見殺しにされているため、秀吉の養子である秀次をあえて酷評した可能性も否定できない。
武術については、疋田景兼より剣術と槍術を学んだほか、長谷川宗喜や片山久安からも剣術を学んだとされ、切腹の際の介錯ができるだけの腕前があったという。
刀剣の鑑定も行っていた形跡もある。
このほか日置流、荒木流馬術も学んでいた。
秀次の特殊な偏諱
大名の常として、秀次も有力な家臣の子などに偏諱(へんき)を授けている。
偏諱を受けたと思しき武将には田中吉次、織田長次、増田盛次らがいる。
秀次の偏諱は他の武将と異なり、下偏諱を諱の下の字として与えるという変わった形態を取っている。
官職位階履歴
※日付=旧暦
天正13年(1585年)10月、従四位下右近衛権少将に叙任。
天正14年(1586年)右近衛権中将に転任。
11月25日、参議に補任。
右近衛権中将如元。
天正15年(1587年)11月22日、従三位に昇叙し、権中納言に転任。
新中納言と称される。
その後、近江中納言あるいは、江州中納言とも称される。
天正16年(1588年)4月19日、従二位に昇叙。
権中納言如元。
この時期、清華家の家格に列す。
天正19年(1591年)2月11日、正二位に昇叙し、権大納言に転任。
12月4日、内大臣に転任。
12月28日、関白宣下。
内覧宣下。
豊臣氏長者宣下。
内大臣如元。
文禄元年(1592年)1月29日、左大臣に転任。
関白・内覧・豊臣氏長者如元。
文禄4年(1595年)7月8日、出家。
7月15日、没す。
墓所
京都市の瑞泉寺 (京都市)に豊臣秀次の五輪の塔と、処刑された者の墓がある。
墓所は善正寺 (京都市)にある。
また秀次が切腹した高野山にも墓所がある。
供養
豊臣秀次の命日の7月15日には、瑞龍寺 (近江八幡市)住職により、八幡山(滋賀県近江八幡市)で供養が行われる。