賢憬 (Kenkei)
賢憬(けんけい、和銅7年(714年) - 延暦12年11月8日 (旧暦)(793年12月15日))は、奈良時代の法相宗の僧。
俗姓は荒田井氏。
尾張国の出身。
賢璟(けんきょう)とも称される。
尾張僧都あるいは尾張大僧都とも呼ばれた。
興福寺宣教に師事して唯識法相を学ぶ一方で苦業練行を重ね、天平15年(743年)正月に「師主元興寺賢璟」として同族の子麻呂を優婆塞に貢進推挙した。
754年(天平勝宝6年)唐の僧鑑真を難波に迎え、翌755年(天平勝宝7年)には旧戒を破棄して鑑真から具足戒を受けた。
758年(天平宝字2年)には唐招提寺に一切経420巻を奉納している。
774年(宝亀5年)に律師に任じられている。
宝亀9年(778年)頃に大和国室生山で延寿法を修して山部皇太子(後の桓武天皇)の宿痾を治したために、後に桓武天皇の深い信頼を得た。
780年(宝亀11年)多度大社神宮寺に三重塔を建立、また宝亀年間(770年-780年)には室生寺を創建している。
784年(延暦3年)大僧都に任じられる。
延暦4年4月(785年5月)の最澄の戒牒や『多度神宮寺伽藍縁起並資財帳』に、ともに僧綱の一人として署名した。
793年(延暦12年)遷都を行うにあたって遷都先の地を選ぶ際、山背(山城国)の地に派遣されている。
その際、比叡山文殊堂供養で導師をつとめている。
同年11月8日(793年12月15日)に80歳で没した。
高い学識で知られ、大安寺戒明が入唐求法で請来した「釈摩訶衍論」を調べてこれを偽書と判定し、最澄と会津の徳一との論争に影響を与えた。
多くの弟子がいたが、その中でも修円・明福は有名である。