足利政知 (ASHIKAGA Masatomo)

足利 政知(あしかが まさとも)は、室町時代後期の足利氏一族で、初代堀越公方である。

第7代将軍足利義勝の異母弟で、第8代将軍義政と義視の異母兄。
子に足利茶々丸、潤童子、第11代将軍となった足利義澄、小田成治の養子となった小田政治など。

室町幕府公認の関東公方として下向するが、幕府権力の衰退と上杉氏の内紛などで鎌倉に入れず、伊豆国の堀越に留まった。
このため、堀越公方と称される。

略歴
永享7年(1435年)、第6代将軍足利義教の次男として生まれる。
義政や義視より年上であるが弟とされているのは、義政・義視の母親が幕府で権勢を誇っていた日野家だった。
幼少期から天竜寺香厳院の僧となったが、弟の義政の命により長禄元年(1457年)に還俗する。

幕府公認の関東公方として派遣されるが、当時幕府と敵対状態にあった足利成氏の勢力が強大なため鎌倉に入ることができず、伊豆堀越に逗留した。
、補佐である関東執事渋川義鏡の讒言を信じて扇谷上杉家の上杉持朝の反逆を義政に通報したため上杉氏内部で政知擁立に異論が出された。
結果的に自ら鎌倉入りの可能性を閉ざした。
以後、成氏の古河公方勢力と30余年に渡る抗争を繰り広げたが、当時幕府は応仁の乱の最中であったため満足な軍事力を付与してもらうことができず、関東一円を制することは叶わなかった。

上杉氏が成氏と和睦して幕府もこれを認めたために、文明 (日本)14年12月(1483年)に成氏と和睦した。
最終的に、堀越公方は伊豆1国のみの支配者となった。

晩年には長男茶々丸の廃嫡を諌めた関東執事上杉政憲を自害させた。
また管領細川政元と連携して第10代将軍足利義稙の廃立を計画するが、延徳3年(1491年)4月に自身が伊豆で病死したことによって挫折した。
享年57。

その死から3ヵ月後には、堀越公方の跡継ぎをめぐって子の茶々丸と潤童子の間で内紛が起こり、北条早雲の伊豆侵入を招いた。

官位履歴
※日付=旧暦
1457年(長禄元年)12月19日、堀越公方就任。
12月26日、還俗し、政知を名乗る。
同日、従五位下に叙し、左馬頭に任官。

1470年(文明_(日本)2年)11月26日、従四位下に昇叙する。

1475年(文明7年)9月9日、従三位に昇叙。
左兵衛督如元。

1485年(文明17年)左兵衛督を辞任。

[English Translation]